プーチン政権の言論統制によって、苦境に立たされているロシアのメディア。ノーベル平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフ氏が編集長を務めた独立系新聞「ノーヴァヤ・ガゼータ」も例外ではなく、これまでに同紙の記者・寄稿者6名が不審な死を遂げている。

 命をかけて報道に取り組むロシア人ジャーナリストたちは今、何を思うのか。ここでは同紙の記者として長年活躍してきた、エレーナ・コスチュチェンコ氏によるエッセイを特別公開する。ウクライナ侵攻後、戦争報道に尽力してきた彼女は当局に目を付けられ、ベルリンに身を隠した。「私は生きていたい」と訴えるコスチュチェンコ氏の体に起きた異変とは――。(全2回の2回目/最初から読む)【翻訳:高柳聡子】

エレーナ・コスチュチェンコ氏 ©Elena Kostyuchenko

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 ベルリンではすぐに医者にかかるのは容易ではない。10日後の10月28日になって私はようやく医者に行くことができた。

 それは、私の住む地区にある普通のクリニックだった。医師は2人いたが、すぐに、これはコロナの遅発性後遺症だと言った。「半年ほど続くでしょう。半年たってもよくならないようならまたいらしてください」。でも、エコーでは何も異常はなかったし、お腹も診察してもらった。私は採血をしてくれと医師たちを説得した。ほっとしてクリニックを出た――たいしたことはないようだ、すぐによくなるだろう。

 でも血液検査の結果は悪かった。肝酵素のALTとASTが正常値の5倍もあったのだ。尿検査もしてもらった。血が混じっていた。

 医師たちはもう冗談も言わなかった。私はより経験豊富な別の専門医に引き渡された。彼女はまず最初に、「ウイルス性肝炎か何かでしょう、おそらく戦場からもらってきたんでしょうね。見つけて治療を始めましょう」と言った。

 肝炎の検査は陰性だった。

どんどんむくみ出した体

 症状は変化していった。腹痛はそれほど強くなく、めまいも減った。力はまったく出なかった。顔がむくみ出した。それから、指にもむくみが出てきた。私はやっとのことで指輪を外したが、再びはめることはできなかった。指はソーセージみたいだった。足の裏もむくみ出した。むくみはどんどん大きくなり、顎のラインがなくなって、私の顔は私の顔ではなくなってしまった。鏡に映った姿を自分だと認識するのに時間がかかった。時々、心臓が走っているときのように早く打つようになった。手のひらや足の裏が焼けるように熱をもち始め、真っ赤になっていった。

 何をしてもへとへとになった。階段を下りるのも大変だった。時々私は散歩に出た――15分か30分ほど。そうすると帰らないといけないくらい疲労した。私は眠れなくなってしまった、もう痛みのせいではなかった。眠らなければならないということを脳が忘れてしまったみたいだった。何時間もじっと横になったままで、(恋人の)ヤーナを起こさないようにしながら、天井を見つめ、自分にはいったい何が起きているのだろうと考えていた。

 肝酵素は上がり続けていた。尿には相変わらず血が混じっていた。