結婚・離婚、声優生命の危機も
新進気鋭のアニメ監督と、アイドルから一歩踏み出した声優。若い才能が交差したこの作品以降も、2人の人生が順風満帆であったとは言えない。今敏は一作ごとに世界的な評価を高めつづけたが、2010年、46歳の若さで膵臓癌を患い、世を去った。岩男潤子もまた、結婚と離婚を経験し、声優・歌手生命に関わる耳の手術とリハビリに苦しむことになる。
2021年、岩男潤子が演じた印象的な役があった。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の鈴原ヒカリ(旧姓・洞木ヒカリ)である。文明が崩壊した世界で、かつての主人公の同級生たちは大人になり、「第3村」と呼ばれる原始的なコミュニティを形成して生をつないでいる。
過去のシリーズで、洞木ヒカリは目立つキャラクターではなかった。アスカ、レイ、シンジといったメインキャラクターよりはるかに出番は少なく、物語が収斂する完結編での出演はもうないのではないかと思われていた。だが、25年にわたるエヴァという物語の重要な部分を支える要素として、普通の人間として生きて年齢を重ねる同級生たちの再登場を庵野秀明は選んだ。
「喪失を受け入れる」物語
文明が崩壊した世界の中で、ヒカリはかつての生活も、将来への夢も失いながら、ただトウジとの間に生まれた子供だけを必死に育てる生活を送っている。一方、彼女の声を演じた岩男潤子は前述のフォトエッセイ『voice ー声のツバサー』の中で《私ね、子供がほしかったの…お母さんになりたかった…でもその願いが叶うことはなく…》と自分の中の痛みを告白している。
2021年6月26日、庵野秀明は本作の主題歌を手がけた宇多田ヒカルとインスタライブで対談し、「(シン・エヴァは)最終的には喪失を受け入れるというだけの話なんです」と語っていた。母であること以外のすべてを失って生きるヒカリと、歌手・声優の夢を実現しながら母になる願いが叶わなかった岩男潤子は、正反対でありながら鏡像のように反転した喪失の痛みでつながっているように思えた。
「月刊ニュータイプ」2021年6月号のインタビューによれば、庵野秀明は「あなたもこれまでいろんなことがあったでしょ。そのままでいいんですよ」とヒカリを演じる岩男潤子にアフレコで声をかけたという。自分自身をぶつけた『パーフェクトブルー』から長い時を経て、鏡像のように逆の人生を歩いたヒカリと、互いの喪失の痛みを交換するように演じた岩男潤子は、「喪失を受け入れる」という映画の核の部分を支える俳優に成長していた。
日本アニメ史における“伝説”に
「ついに岩男潤子に会うことが出来たわ。彼女は日本の伝説的な声優で、魔法少女アニメの歴史の一部よ」
今年7月、アメリカで行われた日本アニメのイベント「オタコン」に参加したアフリカ系の女性アーティストが岩男潤子とのツーショットをX(旧ツイッター)に投稿して喜ぶのを見た。『カードキャプターさくら』で演じた大道寺知世。『魔法少女まどか☆マギカ』で演じた早乙女和子。数え上げ始めればキリがないほど多くのキャラクターたちを演じてきた岩男潤子は、確かに日本アニメの歴史の一部である伝説的な声優と言えるだろう。だがそれだけではない。20世紀の芸能界の暗部がニュースを賑わす今、アイドルと声優という二つの世界の光と影を目撃し、そして生き延びてきた岩男潤子の経験が、きっと後輩たちによりよい世界を作る日が来るだろう。彼女の人生はレジェンドであるだけではなく、次の世代に伝えるべきレガシー(遺産)でもある。
イギリスの情報誌「Time Out」が2009年に発表した「最も偉大な50本のアニメーション映画」に選ばれ、イギリスのトータル・フィルムの名作アニメ映画ランキングの25位にランクインし、アメリカのカルチャー誌「Entertainment Weekly」の1991年から2011年の映画を対象にした「50 Best Movies You've Never Seen」にも加えられるなど、今なお世界的に再評価され続けている『パーフェクトブルー』は9月15日から、全国51館で再上映が行われる予定だ。
歌手としても活動する彼女は今年11月に、ピアニストの宮本貴奈とデュオ共演するコンサートを開催する。もっと早くキャストが決まっていたら未麻に歌を歌わせたかったのに、という今敏監督の願いを叶えるように、25年前、交通事故で死ぬ結末から彼が救い出した霧越未麻は、今も岩男潤子の中に生き、歌い続けている。