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「結果を出さなければ日本人指導者の評価が変わってしまうプレッシャーがあった」サッカー日本代表監督・森保一の“地獄から天国への日々”

『森保一の決める技法 サッカー日本代表監督の仕事論』より#3

2023/10/13
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絶大な影響を受けた恩師、ハンス・オフト

 過去から学ぶことの意義を、森保はこう説明する。

「日本は(カタール大会の前まで)W杯でベスト16に3回進出していました。最初はトルシエさんが監督をした02年日韓大会、2回目が岡田さんの10年南アフリカ大会、そして3回目が西野さんの18年ロシア大会です。この3大会の戦いぶりを分析し、ブラッシュアップし、アップデートさせれば、自ずと(ベスト16の)壁を乗り越えられるだろうと準備をして大会に臨みました。

 ざっくり言うとトルシエさんの時(のベスト16進出の原動力)は組織力。トルシエさんは日本人のことがよくわかっていた。ある程度かたちを決め、役割を明確にする中で、機能性がより発揮されると。岡田さんが監督の10年南アフリカ大会は、先に言ったように“良い守備から良い攻撃に”というコンセプトの下、サイドのケアがしっかりできていたと思います。

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 また1次リーグで敗退したものの、14年ブラジル大会で日本を率いたザッケローニさんは“インテンシティー(強度)”という概念を代表に持ち込んだ。その後のハリルホジッチさんはデュエル(1対1での球際)に負けない。そしてタテに速く攻めるプレーを重視するという特徴がありました。

 脳梗塞で代表監督の座を退きましたが、イビチャ・オシムさんには“日本サッカーの日本化”という明確なコンセプトがありました。連係、連動を重視する日本代表のプレーモデルの確立といってもいいでしょう。

 ご本人が“考えて走るサッカー”と言ったように、日本人が得意とする速さと技術力を、どういかしていくか。それを追求されたんだと思うんです。ヨーロッパで活躍する日本人選手たちを見ていると、皆、アジリティーとモビリティーがあり、そしてチームに対して献身的です。こうした日本人の良さを、どのようにして組織の中に落とし込んでいくか。それを追求し、提言してくれたのがオシムさんだったと思っています」

©️文藝春秋

 もちろん、恩師であるオフトからの影響は絶大である。

「オフトさんから学んだことはたくさんありますが、一番は“個々の役割を徹底する”ということですね。選手に対する要求はものすごく厳しかったし、また練習も厳しかった。それなのに、いつも笑っているんですよ。それはサッカーって、自分の好きなことでしょう。だったら楽しむことを忘れちゃいけないよ、というメッセージでもあったと思うんです。その学びは、指導者になってからも生きています」

「ピッチサイドで初めてW杯基準を知った。スピードなんて倍速……」

 蛇足だが、森保は試合中、指笛を吹くことがある。オフトも、よく指笛で指示を出していた。「オフトに似ていませんか?」と問うと、「はい、いやぁ(笑)」と苦笑を浮かべて、こう答えた。

「確かにやっていますね。あれはね、試合中、声が全く届かないからなんです。(指笛が)聞こえると、その瞬間、選手がこっちを振り向いてくれる。そこでこっちの意図を理解してくれれば……」

 “ドーハの悲劇”によりW杯出場を果たせなかった森保が、初めてW杯の現場に身を置いたのが18年ロシア大会である。西野監督の下でコーチを務めた。

「ピッチサイドで初めてW杯基準を知った。スピードなんて倍速というと、ちょっと大げさかもしれませんが、早送りしているんじゃないかっていうくらい……。そのW杯基準で、激しく動き、当たりながら技術を発揮し合っている。この経験は僕にとっては本当に大きかった」

©️文藝春秋
「結果を出さなければ日本人指導者の評価が変わってしまうプレッシャーがあった」サッカー日本代表監督・森保一の“地獄から天国への日々”

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