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絶大な影響を受けた恩師、ハンス・オフト

 過去から学ぶことの意義を、森保はこう説明する。

「日本は(カタール大会の前まで)W杯でベスト16に3回進出していました。最初はトルシエさんが監督をした02年日韓大会、2回目が岡田さんの10年南アフリカ大会、そして3回目が西野さんの18年ロシア大会です。この3大会の戦いぶりを分析し、ブラッシュアップし、アップデートさせれば、自ずと(ベスト16の)壁を乗り越えられるだろうと準備をして大会に臨みました。

 ざっくり言うとトルシエさんの時(のベスト16進出の原動力)は組織力。トルシエさんは日本人のことがよくわかっていた。ある程度かたちを決め、役割を明確にする中で、機能性がより発揮されると。岡田さんが監督の10年南アフリカ大会は、先に言ったように“良い守備から良い攻撃に”というコンセプトの下、サイドのケアがしっかりできていたと思います。

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 また1次リーグで敗退したものの、14年ブラジル大会で日本を率いたザッケローニさんは“インテンシティー(強度)”という概念を代表に持ち込んだ。その後のハリルホジッチさんはデュエル(1対1での球際)に負けない。そしてタテに速く攻めるプレーを重視するという特徴がありました。

 脳梗塞で代表監督の座を退きましたが、イビチャ・オシムさんには“日本サッカーの日本化”という明確なコンセプトがありました。連係、連動を重視する日本代表のプレーモデルの確立といってもいいでしょう。

 ご本人が“考えて走るサッカー”と言ったように、日本人が得意とする速さと技術力を、どういかしていくか。それを追求されたんだと思うんです。ヨーロッパで活躍する日本人選手たちを見ていると、皆、アジリティーとモビリティーがあり、そしてチームに対して献身的です。こうした日本人の良さを、どのようにして組織の中に落とし込んでいくか。それを追求し、提言してくれたのがオシムさんだったと思っています」

©️文藝春秋

 もちろん、恩師であるオフトからの影響は絶大である。

「オフトさんから学んだことはたくさんありますが、一番は“個々の役割を徹底する”ということですね。選手に対する要求はものすごく厳しかったし、また練習も厳しかった。それなのに、いつも笑っているんですよ。それはサッカーって、自分の好きなことでしょう。だったら楽しむことを忘れちゃいけないよ、というメッセージでもあったと思うんです。その学びは、指導者になってからも生きています」

「ピッチサイドで初めてW杯基準を知った。スピードなんて倍速……」

 蛇足だが、森保は試合中、指笛を吹くことがある。オフトも、よく指笛で指示を出していた。「オフトに似ていませんか?」と問うと、「はい、いやぁ(笑)」と苦笑を浮かべて、こう答えた。

「確かにやっていますね。あれはね、試合中、声が全く届かないからなんです。(指笛が)聞こえると、その瞬間、選手がこっちを振り向いてくれる。そこでこっちの意図を理解してくれれば……」

 “ドーハの悲劇”によりW杯出場を果たせなかった森保が、初めてW杯の現場に身を置いたのが18年ロシア大会である。西野監督の下でコーチを務めた。

「ピッチサイドで初めてW杯基準を知った。スピードなんて倍速というと、ちょっと大げさかもしれませんが、早送りしているんじゃないかっていうくらい……。そのW杯基準で、激しく動き、当たりながら技術を発揮し合っている。この経験は僕にとっては本当に大きかった」

©️文藝春秋