苦しい将棋を二転三転の末にひっくり返して…
挑戦者決定戦の相手は永瀬拓矢。伊藤とは練習将棋で月に何局も盤を挟む間柄だ。第1局は7月31日に行われ、私は主催の読売新聞社の観戦記を担当し、盤側で2人の攻防を見ていた。先手番を得たのは伊藤。得意戦法の相掛かりに構えようとしたが、後手の永瀬が拒否した。伊藤を知り尽くしている永瀬が避けたことは、評価していることと同義だった。昇り竜の伊藤を警戒している。なお伊藤は中日ドラゴンズの大ファンだが、「(22年のペナントレースは)もう投了してしまったようなものなので(笑)。以前は野球を見るのが好きだったりもしたんですけど、気分転換よりもストレスがたまることのほうが多いです」と苦笑しながら語っていた。23年も同様だろう。
伊藤はかなり口数が少ないタイプだが、ユーモアは持ち合わせている。
角換わりの定跡形になり、先手の伊藤が積極的に動いた。そして伊藤が右金を上がった手で、AIの評価値が少し下がる。永瀬はAIが最善と評価していた金寄りを中心に考えていたので、完全に意表を突かれた。その後、永瀬は自陣の強度を見誤って強烈な角打ちを食らってしまう。伊藤は正着を積み重ねて、大事な初戦を制した。そして8月14日に行われた第2局。伊藤は後手番ながら永瀬に食らいつき、苦しい将棋を二転三転の末にひっくり返して、ついに藤井と大舞台で相まみえることになった。開幕時点で伊藤20歳、藤井21歳。2人の年齢を足して41歳は、タイトル戦の組み合わせで最も若い。
まだ藤井との差はある。「一生、目標にし続けていかなければいけない存在」と伊藤も最強棋士について語っている。それでも来たる日を見据えて、伊藤は日々、将棋に打ち込んでいる。人生で最も喜びを感じる瞬間を伊藤に訊くと「対局に勝った時です。自分は将棋に懸けているので」ときっぱりした返事があった。
ポテンシャルと成長力──。果てしなく広がる伊藤のまっさらな余白が、我々を熱くする。
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