2008年6月23日、太平洋上で碇泊中の中型漁船「第58寿和丸」が突如として沈没し、船員17名が犠牲者になった。当時、波はやや高かったものの、さほど荒れていたわけではない。なぜ、沈みようがない状況下で悲劇は起こったのか。
「未解決」のまま時が流れてしまった、この事件の全体像を明らかにした『黒い海 船は突然、深海へ消えた』(講談社)から、転覆の瞬間を記した部分を抜粋して紹介する。事件が起こったその時、船員たちは何をしていて、何を感じたのか――。(全3回の1回目/2回目を読む)
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静かな昼食の時間
第58寿和丸乗組員の豊田吉昭と大道孝行はブリッジ前の上甲板にいた。この場所は船体の中央部にあり、船体を人体になぞらえて「胴ノ間」とも言う。そのスペースでベテランの2人は、漁船に乗るようになったばかりの若手2人を相手に、ワイヤーの修繕方法を教えていた。シケていたが、自分たちに波がかかるほどでもない。雨合羽の上着も要らなかった。
大道は、高校を中退して16歳で海に出た。最初の漁は石川県の北端、珠洲市蛸島町沖。獲れた大量のサバを見て「すんげぇ」と驚き、思わず何匹いるか数えたという。
それから魚を追って全国各地を回った。岩手県出身の大道にとって見知らぬ土地の港に入り、博多どんたくや京都祇園祭など地域色豊かな行事を見る楽しみもあった。開通してまだ日が浅い、東北新幹線や上越新幹線に自分の給料で乗れることは何よりもうれしかった。「なんて素晴らしい仕事か」と思った。そんな時代から20年以上。すでにベテランになり、若者に漁を教える立場になっている。
「ごはんだよー」という声が船内マイクから聞こえてきた。司厨長、佐藤慶夫の声だ。
時計の針は午前10時半になっていた。
ぞろぞろと船員たちが小さなサロンに集まってくる。4人掛けと6人掛けのテーブルが1つずつ。船員の名前シールが貼られた棚には、マグカップや湯飲み、魔法瓶が並ぶ。サロンで船員たちは入れ替わり立ち替わり、揚げ物中心の昼食を済ませた。ワイヤーの修繕作業を終えた胴ノ間組の豊田らも午前11時ごろ食事に加わった。
豊田と大道からワイヤー作業を教わっていたうちの1人は、新田進。新人の20歳。第58寿和丸が初めての漁船で、乗り始めて2年しか経っていない。昼を食べ終えた新田は、箸を置くとサロンに残り、司厨長の佐藤と共に皿洗いをした。
20人分の皿と20人分の飯碗。それが終わった正午ごろ、新田は甲板下の船員室へと階段を下りた。
司厨長は夕飯の支度のために厨房に残っていたようで、船長や漁労長らの幹部を除けば、船員室に下がったのは新田が最後だったと思われる。
幹部らはサロンに残り、花札を始めようとしていた。