甲板に出たら、海面が異様に高い位置に…
豊田と大道に「胴ノ間」でワイヤーの修繕方法を教わっていた新人の新田は、片耳にイヤホンを付け、寝転がってのんびりと洋画を観ていた。
その時、右舷の船首方向から衝撃を受けた。新田は、波が当たったのだと思った。ほんの少し傾き、船がズブズブと沈み始めているように感じた。2~3秒止まったかと思うと、再びゆっくりと傾斜が増した。
新田には、大道ら先輩たちのような経験はない。「船の傾きが戻らないのは変だな」という程度の危機感しかなかった。それでも甲板に上がって様子を見ようと思い、起き上がった。ズボンをはく前に、とりあえずという感じで部屋の扉を開ける。そこに通路の大道から大声が飛んできた。
「ひっくり返っから早く上がれ!」
ひっくり返る?
何が何だか分からないまま、新田は階段を駆け上がり、船尾甲板に出た。海が視界に入ると、奇妙な感覚にとらわれた。通常もっと低位にあるはずの海面が異様に高い位置にある。
船体の傾きはそれほどでもないのに、海水が今にも船体のへりを越えて流入しそうだった。
いったい何が起きているんだ。
船全体が沈下しているのか。
「フーセンに行け!」
大道がそう叫んだ。左舷前方に漁網用の浮きが積んである。それを目指せというのだ。
新田は漁網の積まれた船尾を回り込み、フーセンを目指して少し傾いたままの甲板を駆けた。気がつくと、甲板上に海水の流入が始まっている。
その時だ。
一気に右傾斜が増した。
甲板長の伊藤もその瞬間、「ひっくり返る」と察した。もう脱出するしかない。2度の衝撃からたったの1~2分。こんなにも短い時間で、こんなにも簡単に船がひっくり返るはずはなかった。それなのに、あり得ないはずの事態が起きようとしている。
生と死の分岐点
伊藤の先を走っていた豊田は、手すりを乗り越え船体の外側に出て、放水口のスリットに両手でつかまり、ぶら下がった。足の下は海だ。伊藤も船からの脱出に挑んだ。
新田と大道は、甲板上を駆けている時、左舷後方の漁具置き場付近で転倒したが、すぐに立ち上がった。大道は胴ノ間に通じる階段手前の手すりにつかまる。新田は目指した場所にたどり着けず、とにかく、つかめるものをつかんだ。それは左舷後方の手すりだった。
右傾斜した船を海水が一気にのみ込む。
船体が右へ、さらに大きく傾く。
その反動で第58寿和丸の左舷側が天高く持ち上がり、船員たちの体も空に向かって持ち上げられた。船内の物が崩れ落ち、物と物がぶつかり合う音が響き渡る。波の音も交じった。
第58寿和丸はひっくり返り、船員たちは一瞬にして海へと投げ出された。
いったい何が起きたのか。
豊田も大道も新田も、事態を把握するどころではなかった。ひっくり返ると思った次の瞬間には海の中で波にもまれていた。激しい2度の衝撃からわずか1~2分ほど。傾きが一気に増してからは、ほんの数秒で船は転覆した。
海に投げ出された者もいれば、船内に残された者もいる。
生と死の分岐点だった。