1ページ目から読む
5/5ページ目

甲板に出たら、海面が異様に高い位置に…

 豊田と大道に「胴ノ間」でワイヤーの修繕方法を教わっていた新人の新田は、片耳にイヤホンを付け、寝転がってのんびりと洋画を観ていた。

 その時、右舷の船首方向から衝撃を受けた。新田は、波が当たったのだと思った。ほんの少し傾き、船がズブズブと沈み始めているように感じた。2~3秒止まったかと思うと、再びゆっくりと傾斜が増した。

 新田には、大道ら先輩たちのような経験はない。「船の傾きが戻らないのは変だな」という程度の危機感しかなかった。それでも甲板に上がって様子を見ようと思い、起き上がった。ズボンをはく前に、とりあえずという感じで部屋の扉を開ける。そこに通路の大道から大声が飛んできた。

ADVERTISEMENT

「ひっくり返っから早く上がれ!」

 ひっくり返る?

 何が何だか分からないまま、新田は階段を駆け上がり、船尾甲板に出た。海が視界に入ると、奇妙な感覚にとらわれた。通常もっと低位にあるはずの海面が異様に高い位置にある。

 船体の傾きはそれほどでもないのに、海水が今にも船体のへりを越えて流入しそうだった。

 いったい何が起きているんだ。

 船全体が沈下しているのか。

「フーセンに行け!」

 大道がそう叫んだ。左舷前方に漁網用の浮きが積んである。それを目指せというのだ。

 新田は漁網の積まれた船尾を回り込み、フーセンを目指して少し傾いたままの甲板を駆けた。気がつくと、甲板上に海水の流入が始まっている。

 その時だ。

 一気に右傾斜が増した。

 甲板長の伊藤もその瞬間、「ひっくり返る」と察した。もう脱出するしかない。2度の衝撃からたったの1~2分。こんなにも短い時間で、こんなにも簡単に船がひっくり返るはずはなかった。それなのに、あり得ないはずの事態が起きようとしている。

生と死の分岐点

 伊藤の先を走っていた豊田は、手すりを乗り越え船体の外側に出て、放水口のスリットに両手でつかまり、ぶら下がった。足の下は海だ。伊藤も船からの脱出に挑んだ。

 新田と大道は、甲板上を駆けている時、左舷後方の漁具置き場付近で転倒したが、すぐに立ち上がった。大道は胴ノ間に通じる階段手前の手すりにつかまる。新田は目指した場所にたどり着けず、とにかく、つかめるものをつかんだ。それは左舷後方の手すりだった。

 右傾斜した船を海水が一気にのみ込む。

 船体が右へ、さらに大きく傾く。

 その反動で第58寿和丸の左舷側が天高く持ち上がり、船員たちの体も空に向かって持ち上げられた。船内の物が崩れ落ち、物と物がぶつかり合う音が響き渡る。波の音も交じった。

 第58寿和丸はひっくり返り、船員たちは一瞬にして海へと投げ出された。

 いったい何が起きたのか。

 豊田も大道も新田も、事態を把握するどころではなかった。ひっくり返ると思った次の瞬間には海の中で波にもまれていた。激しい2度の衝撃からわずか1~2分ほど。傾きが一気に増してからは、ほんの数秒で船は転覆した。

 海に投げ出された者もいれば、船内に残された者もいる。

 生と死の分岐点だった。

黒い海 船は突然、深海へ消えた

伊澤 理江

講談社

2022年12月23日 発売