甲板長は「エンジンをかけて」と指示
すぐ前を走っていた機関長の杉山が、踊り場正面のブリッジに入ろうとしていた。豊田は、ブリッジの入り口に数組のスリッパがあったと記憶している。幹部がそろってそこに居るのだろう。すると、ブリッジの扉が内側から開き、甲板長の伊藤義彦が外に出てきた。豊田の先で伊藤と杉山が向き合う形になっている。
伊藤は、杉山に向かって指示した。
「エンジンかけて。メイン油圧をいれて、ユニック(クレーン)をがっちりこっちに振ってくれ」
右に傾いた船体のバランスを保つためにクレーンを左へ動かせという内容だ。
ただ、伊藤の指示に切迫した様子はない。杉山も落ち着いた様子で、走ってきた道を戻っていく。甲板下のエンジンルームに向かおうというのだ。パラ泊中は止めているメインエンジンを起動させなければ、クレーンは動かせない。戻る杉山の肩が豊田の体にぶつかった。
杉山はそのままエンジンルームへ下りて行った。
ブリッジからは第58寿和丸の周囲がよく見渡せる。そこに居た伊藤らには他船の姿は見えず、船が少し傾いていること以外、異変は見られなかったはずだ。だから、甲板長の伊藤も船の傾きはすぐに戻せると考え、「エンジンをかけて」と杉山に指示を出したのだろう。
この直後、豊田は踊り場の左舷側扉から外の船橋甲板に出た。船首方向に目を向けると、船体はやや前のめりになり、右舷側に傾斜している。豊田が見る限り、その時点では海水は甲板上に入っていなかった。
「ただごとじゃない。ひっくり返る」
2度の衝撃の直前、大道孝行は相部屋の船員室でうとうとしていた。そこを突然、これまでに経験したことのない音と衝撃に襲われた。
「絶対にやばい。ただごとじゃない。ひっくり返る」
とっさにそう感じた大道は、跳ね上がるように起きだした。その場で立ってみたら徐々に傾きが増している。
16歳で能登半島沖に初めての漁に出てから、20年余り。大道は日本海の荒波も十分に経験していた。恐い思いをしたこともある。それでも命の危険に直面したことはなかった。船はそんなに簡単にひっくり返ったりしない。波をかぶって傾いても、海水は放水口から出ていく。傾きは復原する。
しかし、このときは違った。傾きが戻らない。ゆっくりと傾斜が進んでいく。「ひっくり返る」と思ったのは、長い漁師人生の中で初めてだった。