2008年6月23日、太平洋上で碇泊中の中型漁船「第58寿和丸」が突如として沈没し、船員17名が犠牲者になった。当時、波はやや高かったものの、さほど荒れていたわけではない。なぜ、沈みようがない状況下で悲劇は起こったのか。
「未解決」のまま時が流れてしまった、この事件の全体像を明らかにした『黒い海 船は突然、深海へ消えた』(講談社)から一部を抜粋。九死に一生を得て、なんとか岸に戻ってきた豊田吉昭、大道孝行、新田進の生存者3名を迎えた、関係者やマスコミの反応は……。(全3回の3回目/1回目から読む)
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3名の生存者
6月24日朝8時。
救助された3人を乗せた第6寿和丸が小名浜港に着いた。犬吠埼沖での天候とは打って変わり、小名浜はよく晴れていた。
豊田ら3人が岸壁に目をやると、大勢の人が目に入った。新聞・テレビの記者やカメラマン、乗組員の家族、漁協関係者。大型の三脚にカメラを据えたテレビ局のクルーも見える。
第6寿和丸が接岸すると、まず、福島海上保安部の係官が乗り込んできた。そして、青いビニールシートで船の出入り口を覆う。生存者の下船や遺体搬出の様子を報道機関などから少しでも遮るためだ。
3人は船内で簡単に身元を聴かれ、健康状態の質問にも答えた。15分ほどすると、豊田たちはそれぞれ係官に支えられ下船していく。帽子をかぶり、タオルで顔を押さえながら、用意された車へと足早に向かう。テレビカメラが回り、カメラのシャッター音が鳴る。
岸壁の一番前に社長の野崎哲がいた。前日と同じ、ブルーのポロシャツ姿。野崎から「ご苦労さま。大変だったな」と声をかけられ、両足で陸を踏んだ3人は助かったことを改めて実感した。
手配された車に乗ると、大道の姉が駆け寄る。窓ガラスをたたいて、手を振った。後部座席の大道は、姉の口元が「大丈夫?」と動くのを見た。その目に涙が浮かんでいる。生存者の下船が終わると、第6寿和丸の船内に棺が運び込まれた。やや時間が空き、遺体が運び出されてくる。野崎も加わり、棺に手を添えた。心配そうに見守っていた家族たちから嗚咽が漏れ、それが岸壁に広がった。
第6寿和丸は接岸から2時間後の午前10時、捜索のため再び現場海域へ向けて出港した。
この日の新聞各紙朝刊には「漁船転覆4人死亡」「行方不明13人」といった大見出しの記事が載っていた。現場海域の航空写真も各紙に掲載されている。写真のうち、海上保安庁提供の一枚には、捜索に当たる僚船と第58寿和丸が残した黄色いロープが写りこんでいた。同庁によれば、沈没現場は水深5000メートル程度もある。そんな深い海に仲間たちはいるのかもしれない。
救助された3人はショックが大きく、陸に上がってもうまく話ができなかった。病院でメディカル・チェックを受けると、大きなケガはなく、検査データにも異常はない。