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「目的はお金じゃないよ。面白そうだからチャレンジしてみたいんだ」

 そう言ってオーディションを受け、主役の座を射止めたのが、短編映画『SPACE MAN』(13年)だった。続いて『テイク・ア・チャンス~アメリカの内弟子~』(15年)にも主演した。

 両作品も、本人としては満足できる出来ではなかったらしい。この時期の映画は観たくないと言っていたのを聞いたことがある。自分の未熟さを自覚したのだろう。その悔しさが逆に役者という職業への意欲に火をつけたと、私は見ている。

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そして弟の郷敦も東京芸大の受験に失敗し、役者としての道を歩み始める

 真剣佑の高校卒業は私がアメリカでの暮らしに区切りをつけ、再び日本を拠点に活動し始めた時期でもあった。すでに妻とは別居しており、15年に離婚することになるのだが、真剣佑は私と一緒に暮らし、日本で本格的に俳優業をスタートさせることになったのである。

 一方、まだ中学生になったばかりの郷敦は妻と一緒に京都で暮らし始めた。音楽的才能に恵まれた郷敦はアメリカにいた頃からサックスが得意で、京都の中学では吹奏楽部に入った。3年のときには部長も務めている。高校を岡山県の明誠学院高校の特別芸術コースに選んだのも、音楽の道を志していたからだ。吹奏楽の強豪校で学び、東京藝術大学に進学するのが目標だった。

フォーマルなパーティ、撮影現場など、 いろいろな場所に子どもたちを連れて行き、思い出を作った。幼き日の新田真剣佑と共に

 部活はもちろん、吹奏楽部。アルトサックスを担当し、3年のときには全日本吹奏楽コンクールに出場して3位の成績を収めた。やはり、ここでも郷敦は吹奏楽部の部長だった。

 しかし、順風満帆だった郷敦も、人生で最初の挫折を経験する。東京藝術大学を受験したものの、不合格に終わったのだ。そして、浪人はせずに俳優の道を志すことを自分で決めた。私や兄・真剣佑の背中をずっと見てきたからだろう。それに俳優活動をするうえで、音楽をやったことは大きなプラスにはなっても、マイナスにはならない。少しも遠回りではない。

「二世俳優であってもニセの俳優にはなるな」

 こうして、息子2人が私を追うように俳優となったのである。うれしかったが、楽な道ではないことは私が一番よく知っている。

「この世界には二世俳優が、ごまんといる。パパの名前で、チヤホヤされることもあるだろう。でも、そんなのは最初だけだ。いいか、二世俳優であっても、偽の俳優にはなるな。命がけで、父親を超えて行け!」

 真剣佑も郷敦も、そんなことは覚悟のうえだという厳しい顔で、私の忠告に耳を傾けていた。

 日本のスポーツ選手が海外に活躍の場を求めるようになったのは、1990年代からだろうか。野球の野茂英雄が海を渡り、ロサンゼルス・ドジャースで一大旋風を巻き起こしたのが、95年。私もロサンゼルスでの生活をスタートして2年目だったから、野茂の大奮闘は今でも鮮明に記憶に残っている。

 その後、イチローや松井秀喜が続き、現在は大谷翔平がMLBの歴史を塗り替えるような素晴らしい活躍を見せている。