セミコロン。句読点の一種だが、日本語にはないこともあり、文中に登場するとなんとなく落ち着かない気持ちになる。大学の授業で学生に質問されると、「(コロンに対し)セミコロンは、接続詞代わりに完全文をつなげるのに使います」などと偉そうに説明していたが、本書を読み、定義はもっと曖昧なのだと知った。そして、どうやら英語を母語にする人々にとっても、予想以上に厄介なものらしい。
曖昧さはとかく嫌われがちだ。かくして過去の文法家たちは、セミコロンの使用法を厳密に定義しようと躍起になり、果てはシェイクスピアやミルトンの文章までを「修正」した。音楽の休符のようにちょっと長めの「休止」を表わすものだとか、いや、もっと文法的に解釈すべきで「文の区切りを明確化」するものだとか、ルールはどんどん複雑化していく。
そんなルールを順守できるわけもなく、結果、現実には「好みに従って」使用されることに。しかし、この曖昧さは時として、人の命すら奪ってしまう。なにを大げさな、と思われるかもしれないが、実際に法律文のセミコロンの解釈の仕方が終身刑か死刑かの分かれ道になった裁判があると知って、仰天した。厳密なはずの法律文であろうと、必ず「解釈の余地」が生まれる。この解釈の余地に入りこむ偏見について、著者が鋭く切りこむ箇所は、本書の第一のクライマックスでもある。
一方、曖昧さを愛する文学の場では、様々な作家が様々な用法でセミコロンを使う。レイモンド・チャンドラーのエッセイで、「(判事が法廷で使う)小槌のように勢いよく打ち込まれ」るセミコロン。ウェルシュの『トレインスポッティング』の「ギラつくような写実性」を生むセミコロン。メルヴィルは『白鯨』でセミコロンをなんと4000回以上使い、長い物語に「関節」を作り、「自由な動き」を可能にした。
中でも、キング牧師のセミコロンの使用法を「1963年のアメリカにおける黒人の生々しい経験に通じる窓を開くものだ」とする指摘は胸に迫る。牧師の実際の文章が引用されているので、ぜひその効果を実感してほしい。
最初に、曖昧さは嫌われると書いたが、なぜだろう。私は翻訳家だが、翻訳の仕事をしていると、自分は作者の意図を正しく「解釈」しているだろうか、そして読者は、その「解釈」を理解してくれるだろうかと常に考えてしまう。だが、当然、解釈がまったく同じになることなどありえず、そこには曖昧さが残る。しかし、その曖昧さこそが、相手に本気でわかってもらおうとし、相手の話に真剣に耳を傾けることができれば、魅力となるのだ。セミコロンの使用法、ひいては言葉でのコミュニケーションにおける「寛容で親切な心」の大切さを説く箇所が、本書の第二のクライマックスなのだ。
Cecelia Watson/現在、バード大学の訪問研究員。シカゴ大学にて哲学修士、科学概念・科学史博士。マックス・プランク科学史研究所の研究員やベルリンの芸術センター「世界文化の家」(Haus der Kulturen der Welt)で科学コンサルタントの経験を持つ。
さんべりつこ/1968年、東京都生まれ。英米文学翻訳家。新刊訳書にエリー・ウィリアムズ『噓つきのための辞書』などがある。