秋の行楽シーズン、インバウンドの客も戻ってきて、観光地や繁華街ではゴロゴロと大きなスーツケースを転がしている姿をよく見かける。一方スーパーマーケットや商店街では、こちらもショッピング用のキャリーバッグを引いている人が増えた。かくいう私も使い始めたところで、使ってみればなんと楽チンとばかりにゴロゴロ転がしている。
このあまりにも便利で当たり前の機能、すなわち「バッグに車輪をつける」ということが一般化したのが1970年代になってからだと聞いたら、どう思います? 車輪そのものが発明されたのは5000年も前だというのに、それを人間が手で持ち運ぶバッグに取り付けるのが当たり前になったのが、たったの50年前だなんて! その謎を解くためのキーワードが「ジェンダー観」なのである。
次は自動車の話だ。実はイーロン・マスクが登場する100年も前の20世紀初頭、さまざまな移動手段が混在していた時代に、馬やロバ、路面電車とともに、ガソリン車のみならず電気自動車も多く走っていたというのだ。アメリカの大都市では充電スタンドが乱立し、電気自動車のレンタルもタクシーもあったという。
だが、それらはあっという間にガソリン車に取って代わられ、全く姿を消してしまう。バッテリの問題もあったが、ガソリン車とてエンジンをかけるのにクランク棒を回していたような時代のことで、電気自動車はいい勝負をしていた。にもかかわらず、ガソリン車の天下になる。なぜなんだろう。そこにも関わるのが「ジェンダー観」なのだ。
もちろん何事も単純ではなく理由は色々あるだろうが、我々が見過ごしがちでありながら実はとんでもなく大きな影響を及ぼしているのがジェンダー観だとして、果たしてどんな理路でトランクの車輪を拒否し電気自動車を葬ったのか。本書はあたかもミステリー小説の謎解きの如く、それを解いていく。ネタバラシになるので、それはどうか本書で確かめてください。
それにしてもあり得たかもしれないイノベーションが、いかに強固なジェンダー観によって埋もれてきたか。「男は男らしく、女は女らしく」という固定観念。それによって失われた可能性を思うと愕然とする。
そうした過去を鑑みて、では未来について何をどう議論すべきか。この社会のテクノロジー観は基本的に「男性的であることに優位性を認める」ことをずっと続けてきた。技術革新をリードするのは男性の役割で、男性的な技術こそが社会を進歩させるのだという固定観念。それに沿った選択肢しかなかった。が、社会の持続可能性に黄色信号が点り、AIが人間に取って代わろうかという時代に、今ここにある選択肢を疑う必要はないのかと問いかける。固定観念を捨てられるか。違う選択肢を用意できるか。読みながら希望と絶望が交互に浮かぶのだ。
Katrine Kielos-Marçal/スウェーデン出身、英国を拠点に活動するジャーナリスト。政治、経済、フェミニズム等の記事を大手メディアに寄稿する。初の著書『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』は世界20カ国語に翻訳、日本でも話題に。
あさぎくにこ/1962年生まれ。タレント。書評サイト「HONZ」に寄稿。著書に『おひとりさま薬膳』など。国際薬膳師の資格も持つ。