『新古事記』(村田喜代子 著)講談社

“原爆開発の父”の生涯を描いたアメリカ映画『オッペンハイマー』。伝記映画では過去最高の興行成績をあげた話題作だが、いろいろあって日本での公開が決まらない。不満に思う方々に本書をおすすめしたい。

『新古事記』というタイトルからは想像できないが、物語は第二次世界大戦終盤のアメリカ。「月面世界よりはまし」なロスアラモスの荒野に突如として現れた町が舞台である。住人は、原爆開発のためアメリカ政府が世界中から集めた5百数十人の科学者とその家族、彼らを護衛(そして監視)する軍の兵士1000人だ。

 主人公は日系のルーツを持つ女性アデラ、夫は物理学の科学者だ。毎朝7時、町に響きわたるサイレンは「オッピー(オッペンハイマー)の口笛」と呼ばれ、男たちは研究所に規則正しく出かけていく。むろん原爆開発は極秘中の極秘、妻たちには夫が何の研究をしているのか全く知らされていない。町にはMPの検問所が置かれ、外界に通じる唯一の窓口は「私書箱1663号」、これが住人全員の住所だ。手紙は検閲され、電話も盗聴される。研究所からは時おり不気味な爆発音が響く。

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 奇妙なアンバランスの上に妻たちの日常が始まる。アデラは真新しい動物病院に勤め、犬の世話に精を出す。女たちはここで生活を築こうと必死だ。「購買部」の品揃えが悪ければ町のすべてを取り仕切る将軍に直訴したり、教会のない町にシナゴーグを作り自らラビ(聖職者)を務めたりもする。

 核物理学は歴史が浅い。ゆえに科学者たちは若い。国の命運がかかる研究の重圧から解放されるのが夜だ。いきおい町は妊娠・出産ラッシュとなり、分娩室は順番待ちになるほど。陸軍病院は産科病棟の増築に追われる。新しい命が呱々(ここ)の声をあげる傍ら、大量殺戮兵器の開発は静かに進む。日常と非日常が入り混じり、生と死が残酷に同居する。本書は、実在した原爆開発科学者の妻による手記『ロスアラモスからヒロシマへ』に着想を得ており、全編を通して良質な長編映画を観るようだ。

 ある日の夕方、アデラは地元のインディオに案内されて「神様が誤って空から落とした虹」の縞模様が残るという奇岩を見に行く。このシーンに評者は、広島への原爆投下直後、キノコ雲に虹色の光が宿って見えたという被爆者の証言を思い出し、『新古事記』の意味が腑に落ちた。神話は、神の御業でこの世が創造されたという。しかし戦争は、始めるのも終わらせるのも人間の仕業だ。

「われは死なり。世界の破壊者となれり」

 原爆開発を成功させたオッピーの有名な言葉だが、その真意を問うアデラに夫が語る言葉がふるっている。

「自分たちはこの世の地獄を、この手で作ってしまったって。だから最悪の死神で、そして最低のクソ野郎だって言ってるのさ」

むらたきよこ/1945年、福岡県生まれ。77年に作家デビュー。87年『鍋の中』で第97回芥川賞を受賞。98年『望潮』で川端康成文学賞、2021年『姉の島』で泉鏡花文学賞など受賞多数。
 

ほりかわけいこ/1969年、広島県生まれ。ノンフィクション作家。著書に『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』など。