『ヒロイン』(桜木紫乃 著)毎日新聞出版

 夜遅くのチョコレートケーキ、2杯目のご飯。食べた分だけ容赦なく、レオタード姿に現れた10代を思い出した。3歳から始めたクラシックバレエを、14歳の時には「バレエでは食べていけない」と悟った。バレリーナになる夢を誰よりも応援してくれた母はまた、辞めたいならいつでも辞めなさい、というスタンスだった。もっと食べたい時、レッスンよりも友達と遊びたい時、いつも「だったら辞めなさい」と。当時は厳しいと思っていたその言葉に、実は救われていたのだと「ヒロイン」を読みながら思った。

 バレエ教室を営む母のもとで、幼い頃からバレリーナになることだけを目標に厳しく育てられてきた岡本啓美(ひろみ)。一度の失敗も許されず、間食が見つかれば頬を打たれる。母の支配に追い詰められ、自分の存在意義を見失っていた啓美は、18歳で新興宗教団体「光の心教団」と出会い、母から逃げたい一心で教団に入信し、約5年の間、修行をする。そして1995年3月。東京・渋谷駅で、光の心教団は、毒ガス散布事件を起こす。死者5人、重軽傷者多数。啓美は、何も聞かされないまま教団幹部の男に連れて行かれ、一緒に渋谷を歩き回っただけなのに、実行犯とされ全国に指名手配されてしまう。無実の罪で捕まるわけにはいかない彼女は、容姿と名前を変え、別人に成りすまし、そこから17年にわたり逃亡生活を続けることになる。

 面白いのは逃亡先では、啓美を警察に突き出そうとするよりも、彼女を必要とする人たちがいることだ。逃亡者は、時に救世主となる。問題を抱えているのは啓美だけではなく、彼女の数奇な人生が、周りの女性たちを強く照らすことがある。この物語のヒロインは一人ではなく、独りでもない。

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 離婚した父親の新しい家族のもとに数日間、身を寄せるつもりだった啓美は、そこで予想外の現実を知る。父親の再婚相手の娘もまた、バレリーナを夢見る少女だったのだ。自分と重なり合う部分と、あまりにも違う境遇は、啓美に様々なものを呼び起こす。捨てたはずのバレエも教団の修行も、思いがけず役に立つこともある。辞めたからこそ、分かるものもある。

 修行を積めばいつか光の世界に辿り着けるという教祖の教えを信じていた啓美は、事件後どん底に突き落とされ、「光なんて、どこからも差さないじゃないか」と憤る。だがそれでも教団を恨まず、全否定もしない。それより、なぜ自分は信じてしまったのか、信じるとはどういうことなのか、己の「罪」は何なのかを自問し続ける。逃亡しながら、他人に成りすましながら、自分からは逃げない。人との出会いによって、生きていく強さを身につけ、弱さを知る。

 誰もがみな、自分の人生の主人公であり、役割を演じている。課されることもあるけれど、もっと自由に演じてもいいのかもしれないと思った。その先に見える景色が、きっとある。

さくらぎしの/1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」でオール讀物新人賞を受賞。07年、単行本『氷平線』でデビュー。13年『ホテルローヤル』で直木賞、20年『家族じまい』で中央公論文芸賞受賞。他の著書に『砂上』『緋の河』『孤蝶の城』など。
 

こばしめぐみ/1979年東京都生まれ。女優。著書に『恋読 本に恋した2年9ヶ月』。12月15日公開の映画「あみはおばけ」にて主演。