「鹿児島のホテルのラウンジで朝の4時まで飲んで、当日のデーゲーム前に明け方ちょっとだけ寝て、試合に出てホームランを打ったんですよ」
落合博満さんや、村田兆治さんなど“昭和のプロ野球”名選手たちの豪快すぎるエピソードを紹介。スポーツライターの元永知宏氏の最新刊『プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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ジャイアンツが圧倒的に強かった時代
のちにメジャーリーグの歴史を変えることになる大谷翔平が生まれたのは1994(平成6)年。野茂英雄が近鉄バファローズを自由契約になって、ロサンゼルス・ドジャースで「トルネード旋風」を巻き起こしたのが1995年。
30年以上前の、いや、もっと前のプロ野球は今とはまったく姿も形も違っていた。
たとえば80年代、球団は関西(大阪2、兵庫2)と関東(東京3、神奈川2、埼玉1)に固まっていた。あとは、関西と関東の間にある名古屋に中日ドラゴンズ、広島に本拠地を置く広島東洋カープがあるだけだった。
その頃のプロ野球ファンに「いずれ福岡にも、北海道にも、仙台にもプロ野球の球団ができるよ」と言っても信じてはくれなかっただろう。
日本のプロ野球では、「球界の盟主」と言われた読売ジャイアンツが圧倒的な支配力でほかの11球団を従える時代が長く続いた。巨人戦のほぼすべてがテレビで生中継(もちろん、地上波!)されていたし、ドラフト制度やそれ以外のさまざまなルール変更にも巨人が大きな影響力を持っていた。
乱暴に言えば、ほかの11球団が巨人という球団の人気にぶら下がる形で運営されていたのだ(パ・リーグの優勝を争う試合よりも、巨人とのオープン戦のほうが観客数が多かったという笑えない話もある)。
あの野茂がメジャーリーグとの間にあった壁をぶちこわすまで、日本球界は長く鎖国状態だった。メジャーリーガーが助っ人として日本に来ることがあっても、日本人選手が海を渡るなど誰も本気で考えなかった。
一度、球団と契約を結んだ選手に移籍の権利はない。年俸、その他の待遇や権利について、フロントと交渉できるのは本人だけだった。
監督やコーチに不当な扱いを受けても選手は耐えるしかない。「トレードに出してほしい」という直訴は「わがまま」だととらえられることが多かった。
2023年の今と比べれば、選手の年俸も恵まれたものとは言えなかった。
1980(昭和55)年夏の甲子園で横浜高校(神奈川)を日本一に導いた愛甲猛は、その秋のドラフト会議でロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から1位指名を受けた。
高校1年の夏に甲子園のマウンドを踏み、3年夏にはアイドルの荒木大輔(早稲田実業)を下したサウスポーは、球団の看板選手になりうるスーパースター候補だった。
愛甲が言う。