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ユニフォームを来てプロ野球を応援する文化を作ったのは、ロッテ“伝説の球団職員”だった

文春野球コラム ペナントレース2023

2023/09/03

 今日はロッテ球団の“伝説の球団職員”と呼ばれる横山健一さん(59)の話を書きます。

 今はマリンスタジアムのみならず、どこの球場でもユニフォームを着て応援するのが当たり前になっています。が、その文化は自然発生したものではありません。きっかけを作り、涙ぐましい努力で浸透させていったのが横山さんなのです。

 ちょっと長いですが、全身全霊を傾けて「ロッテ愛」を貫いてきた横山さんの半生記にお付き合いください。

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横山健一さん(本人提供)

横山さんのロッテ熱を決定的にした契機

 横山さんのロッテとの出会いは50年以上前に遡ります。近所のオリオンズファンのおじさんが、なんと東京球場に連れて行ってくれたのだと! 「球場もカッコよかったし、チームも強かった」と振り返る横山さんは、当時まだ小学校低学年。1970年、ロッテが優勝した時のことははっきり覚えていると言います。

「普段ガラガラの球場が満員になって、東京音頭を大合唱しました。優勝の瞬間みんなグラウンドになだれ込んだ。僕も中に入ったんですけどもみくちゃで何が何だかわからなくなりました」

 そんな東京球場が人手に渡ったのが72年。73年からは神宮、川崎、後楽園などを借りながら仙台を準フランチャイズとする、いわゆるジプシー時代を迎えました。小学生にとって仙台での観戦は至難の業でしたが、それを助けてくれたのが、当時応援団長にしてオリオンズ観光社長だった故・松本真一さん。74年のプレーオフ優勝も11歳の時に現地仙台で観戦できました。

 横山さんのそんなロッテ熱を決定的にした契機が78年~中学3年生のとき。この年、ロッテは川崎球場に移転。金田正一監督のもと、南海から野村克也さんも獲得したチームの優勝を、横山さんは確信したそうです。ただ現実はそうなりませんでした。しかも、カネやん(金田監督の愛称)らの懸命なファンサービスをもってしても、お客さんはなかなか足を運んでくれません。

 当時年間20~30試合観戦していた中学3年生の横山さんはついに、人手の足りない応援団に駆り出されました。79年になると川崎市役所の方々が市民応援団を結成、横山さんはこれもお手伝い。そして法政二高に川崎球場が近いという理由で進学した横山さんは、松本真一さんが率いる応援団に正式入団。人手が足りなかったため、「旗振り3年」という不文律に反して1年目からリードを取ることもあったといいます。

「当時ガラが悪いとかは全然考えませんでしたね」と言う横山さんですが、この年に誕生した西武ライオンズとの試合には手を焼いたそうです。いわゆる旧西鉄派と西武派の内ゲバ(喧嘩)が絶えなかったと。西鉄派の人たちは一塁側にまでやってきて、横山さんたちに酒を飲ませました(時効ということで……)。

「応援団ちゅうもんはもっとしっかりせい!」。酩酊した横山さんは、とうとう金網に登らされて応援をしていた……それが川崎球場の応援スタイルに定着していったといいますから、きっかけとは不思議なもの。「九州のライオンズを返せ!」。西鉄派のおじさん達の悲痛な叫びは多感な横山少年の心を揺り動かしたことでしょう。

“思い出作り”でロッテ本社の面接に

 80年、前期優勝を祝う室内練習場でのビールかけの時は中に入れてもらいました。81年も前期優勝。後期優勝の日ハムとの決戦、「徹夜で並ぼうぜって後楽園に行ったら誰もいなかった。翌日始発で行っても誰もいなくて拍子抜けでした」とは高校3年生時の思い出です。

 この当時、ロッテ球団は応援団に、選手のお下がりのユニフォームのネームを張り替えて使わせてくれていました。横山さんももちろんこれを着て応援。「ユニフォーム姿で応援する気持ちよさ、これはサイコーでした。それがのちの自分の仕事に生きてくるんですよね」と横山さんは振り返ります。

 法政大学に進んだ横山さんは1シーズンに100試合以上ロッテ戦に足を運んでいました。なんとアルバイトで稼いだお金を遠征ゲームの資金にしていたそうです。

 当時は稲尾和久監督のもと、落合博満さん、村田兆治さんと個性派のスター選手が揃っていました。テレビでは『サンデー兆治の妻』という、村田さんを題材にしたドラマが放送されていて、横山さんは応援団長役に駆り出されドラマデビュー。また、実際の試合ロケでは、西武のユニフォーム姿で金森栄治さん役としても登場。村田さん役は俳優の名高達郎さんでしたが、野球のシーンではなんと水上善雄さんと入れ替わりました。すると、水上さんがわざと足元を狙って投げてきて、横山さんが避けると、「なんで当たらないんだ? 金森だろ??」とゲラゲラ笑っていた……なんて逸話も(笑)。

 就職を迎えた横山さんは「人に接したかったのでサービス業にと思っていました」と言います。ただロッテ本社だけは「受けて落ちたという思い出を作りたかった」ということで応募。

 面接会場となった錦糸町のロッテ会館には何百人もの学生がいました。と、かつて球団フロントで要職に就いていた方がロッテ会館の責任者になっていて、偶然横山さんの姿を見つけたのです。

「『なんだ、君はロッテに入りたいの?』と言われ、『はい!』って答えたら、『じゃあ◯月×日に重役面接に来なさい』ってなって……」

 86年、横山さんは晴れてロッテに入社。はじめは営業職でした。横山さんが赴任したのはなんと仙台支社。当然ながら知り合いの多い地で皆さんに助けられ、わずか1年で東京に戻ります。初台の本社に、野球のある時はバイク通勤でした。勤務終了後に川崎球場へ急行したのです。「終業も遅く、着いた頃にはいつも7~8回でした」という横山さん。そのバイタリティーには脱帽です。

「(野球という)好きなことは仕事にしたくなかった」という横山さんですが、頭抜けたオリオンズ愛を会社が放っておくはずはなく……。重光昭夫さん(現千葉ロッテマリーンズオーナー)の立ち上げた球団改革のためのプロジェクトの手伝いをしたり、本社勤務ながら球団の集客にも携わるという二足のワラジで働きました。

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