「『生まれ来る子供たちのために』をシングルで出せるんだとなったときが、一番うれしかったかもしれない。70年代前半の歌は誰も聴いてくれなかった。だからこそ、『生まれ来る子供たちのために』は、やっとのヒットの直後に正面勝負しないといけない曲だった。俺の発想の原点は常に、『この国はこのままではダメだ』という思い、危機感というか、そういう意識ばっかりだった。自分のなかでは全然背伸びしていないんだ。ただ、あの曲が何かに貢献したかというと、とくに売れず、当時、反響は何もなかった」

のちに「発見された曲」だった

「生まれ来る子供たちのために」が現在のように広く知られ、高い評価を受けるようになった契機は、ここから約20年たった1999年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によって難民救済活動への支援を訴えるCMとして使われ、テレビで流れるようになったことだった。さらに後年、何人かのアーティストにカバーされたりもした。つまりこの歌は、のちに「発見された曲」なのである。小田には、ほかにも、このように「発見された曲」がある。ちなみに「生まれ来る子供たちのために」は、いまもUNHCRに無償提供され、ホームページなどで使われている。

 オフコースはヒット曲を出した。

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 そして日本武道館公演を控えるまでになった。「武道館でやりたいと言い始めたのはスタッフだからね、俺はあんまり思わなかった」と小田は振り返るが、それだけオフコースは名実ともに大きなバンドへと成長したということだろう。

 もうひとつ、「さよなら」のヒット後、少し変化があるとすれば、かつてマネージャーだった上野博の再登場と言えるだろうか。

 1980年1月末、新宿厚生年金会館での公演を見に来た上野博に、小田は「さよなら」の次のシングルについて相談した。上野も「『生まれ来る子供たちのために』を出したらいいやん」と励まし、結局、これを機に、上野がふたたびプロモーション担当として、オフコースに関わるようになる。そして、この上野の再登場により、オフコースはまた新たな局面を迎えることになるのである。