誰からも尊敬されるイチローとはいえ、彼の発言は言葉の意味さえ変えてしまうのかと驚いたことがある。二〇一六年春、テレビ番組のインタビューで、高校時代に投手から野手に転向したのはなぜかと問われ、白い歯を見せこう答えていた。
「一年生からすれば三年生は神様。先輩たちに投げられなくなり、二年春からイップスになったんです。オリックス入団五年後の一九九七年まで続きました。苦しかったですね〜」
番組を見た多くの人が「あの天才イチローがイップス?!」と、驚いたに違いない。もしくは「イップスって何?」と疑問を抱いた人もいるはずだ。
イップスという言葉は、野球やゴルフ界を中心にかなり古くから囁かれてきた。その原因や治療法が不明確なことから復帰は厳しいとされ、大きな声で語られることはなかった。だが、イチローの発言以降趣が変わった。堂々と名乗り出る選手、あるいはサボリ癖をカモフラージュするための「なんちゃってイップス」の選手も。そんなスポーツ界の風潮に後押しされてか、十年ぶりに改訂された『広辞苑』に「イップス」が新登場。「これまでできていた運動動作が心理的原因でできなくなる障害。もとはゴルフでパットが急に乱れることを指したが、現在は他のスポーツにもいう」と説明されている。
ん? イップスの原因は心理的なものだけでないはず、と考えているときに本書を手にした。横田真一や岩本勉など罹患した野球、ゴルフ選手から丁寧に聞き取っただけでなく、周辺のコーチや有識者などからも話を聞き、イップスの正体を克明に暴こうとしている。
罹患した原因、復帰過程は様々だが、確実に言えることは「イップスになったのはメンタルが弱いから。もっと練習を」式の考えは絶対にNG。練習し過ぎが遠因になっているからだ。こういう新しい分野の原因究明は、いかに多くの臨床例を集めるかにかかっている。
さわみやゆう/1964年、熊本県生まれ。ノンフィクション作家。陰の世界で懸命に生きる者に光を当てることをテーマに幅広く執筆。2003年刊行の『巨人軍最強の捕手』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。
よしいたえこ/宮城県生まれ。スポーツライター。著書に『天才を作る親たちのルール トップアスリート誕生秘話』などがある。