毎年のように大規模災害が起きている。だが、私達は進んで災害の中に身を置くような暮らし方をしていないだろうか。人類は古くから被災しにくい場所を選んで生活してきたはずだ。なのに治水工事が進むと自然の脅威が克服されたかのように錯覚してしまう。そして災害リスクの高い土地にまで居住地を広げてきた。

 このため、被災時には想定外のように感じても、実はそうではないことが多々ある。その最たる例は、2018年に発生した西日本豪雨だろう。14府県で219人の犠牲者が出た。そのうち51人が亡くなった岡山県倉敷市の真備町では様々な教訓が浮かび上がった。

 真備町は2本の一級河川の合流点にある。岡山三大河川の一つに数えられる高梁(たかはし)川と、これに流れ込む小田川だ。

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岡山県の高梁川 ©AFLO

「過去に水害があったとは聞いていたが…」

 停滞した前線の影響で記録的な豪雨となった同年7月6日、岡山県でも400mmを超える雨が降った。高梁川の水位はどんどん上がり、支流の小田川で背水(バックウォーター)現象が起きた。河川は本流の水位が上昇すれば、支流の水位も同じレベルまで上がる。結果として小田川の水位は一気に上がった。

 それだけではない。小田川には何本もの小さな支流があり、これら小規模河川でも背水現象が起きた。最初に破堤したのは小規模河川だ。さらに小田川も決壊して、真備町の市街地は一面、湖のようになった。最大浸水深は5m強。2階の屋根だけが水面に浮かび、その上でボートなどによる救助を待つ人が続出した。

「まさか浸水するとは思わなかった」

「過去に水害があったとは聞いていたが、ちょっと浸かる程度と考えていた」

 そう語る被災者が多い。だが、実際にはハザードマップ通りの浸水だった。そもそも高梁川は暴れ川で、真備町は氾濫の常襲地だったのだ。明治以降、被害が最も大きかったのは1893年の洪水だ。高梁川・小田川の流域で310人が亡くなった。「生まれも育ちも真備」という70代の女性は「床下浸水はしょっちゅうで、子供の頃は水の中をじゃぶじゃぶ歩いていた」と振り返る。このため多くの住民が住んでいたのは浸水しない山裾だ。しばしば氾濫にさらされてきた低地は水田として利用した。洪水は肥沃な土を残す。川があふれても稲作にはメリットがあり、人々は暴れ川と上手に付き合いながら暮らしてきたのだった。