そう言って彼女のスーツケースを抱えて列車へと先導する。レディー・ファーストが身についている。穎右の洗練された行動に心がまたときめいて、9歳の年齢差が意識からしだいに遠ざかってゆく。
道中の列車の中では話も弾んだ。シズ子が冗談を言えば、間髪容れずに気の利いたツッコミが返ってくる。やはり、波長があう。穎右はシズ子が列車を乗り換える神戸まで一緒について来て、荷物の上げ下ろしなど甲斐甲斐しく世話を焼いた。
神戸駅のホームで別れの挨拶をすると、名残惜しさがまた胸にあふれてくる。もっと一緒に居たい。立ち去ってゆく穎右の後ろ姿を見つめる。それは、もはや恋する乙女の目になっていた。
相生での興行を終えて東京の家に戻ると、穎右からの手紙が届いていた。名残惜しい気持ちは相手も同じだったようである。
夏休みが終わって穎右が東京に戻ってくると、シズ子は我慢しきれず一人暮らしの彼の家を訪問した。それを2回3回と繰り返すうち親交は深まってゆく。しかし、ふたりは恋人同士といった感じではなく、傍はたから見ても姉と弟のようにしか映らない。
最後の一線は越えず、親しい友達の間柄で止(とど)まっていた。
坊ちゃん気質なのだろうか、穎右はおっとりして優しい性格だったという。それをいいことにシズ子は、「あれを買こうてきといてな」と、横柄な態度で用事を頼んだりする。また、
「なんや、興行師の子せがれの癖に」
などと、小馬鹿にしたような口を聞くこともよくあった。まるで姉が弟をからかうような……それを意識しての言動だったのかもしれない。
恋仲になれば母親の吉本せいに猛反対されることは見えていた
ふたりが恋仲になっても、結婚は絶対に許されない。息子が9歳も年上の女性と交際していると知れば、普通の親でも猛反対する。吉本興業の跡取り息子となればなおのこと。周囲から祝福されることのない関係はいずれ破局する。不幸な結末が目に見えている。それなら姉弟のような親しい関係のままで、いつまでも楽しくつき合うほうがいい。深入りせぬよう予防線を張っていたのだろう。