町工場を南に進むとほどなく川の土手が見えてきた
そんな八尾南駅の町工場の中を南に歩いてゆくと、ほどなく大和川の土手に出る。大和川は大阪と堺を隔てる川で、古くは大坂冬の陣では大和川を挟んで徳川さんと豊臣さんがぶつかった激戦地のひとつでもある。
土手の上はサイクリングロードになっていて、散歩しているおじさんの姿。そして川の向こう、松原市・藤井寺市一帯にも工場や物流倉庫が並んでいるのが見える。川の上流、ずっと東側には生駒山地。土手の上からは、工業地帯・八尾南の町並みも見下ろすことができる。
八尾南の工業地帯は、1970年に大阪市と八尾市によって大阪八尾開発事業団が設立されて開発がはじまった。つまり、それより前の八尾南周辺には、まったく何もなかったということだ。
といっても、八尾南駅が開業したのは1980年のこと。工業地帯の造成が少しずつ進み、それに合わせて谷町線も延伸して八尾南駅が開業し、新たな工業地帯の玄関口になった、というわけだ。
駅のすぐ近くには大きな飛行場にお屋敷街。これは…
もちろん、工業地帯以前の八尾南には本当に何もなかったわけではない。駅のすぐ東側には、八尾空港という飛行場がある。昭和初め頃に阪神飛行学校として誕生し、民間のパイロット養成所となったのがはじまりで、1940年からは陸軍の飛行場となった。
戦後、米軍の接収を経て返還後は改めて整備されて民間航空基地としていまに至っている。自衛隊も使っているほか、マスメディアの航空撮影などに使われている。
その空港の周りもだいたいは小さな工場が建ち並ぶエリアなのだが、空港の北と南にいかにも昔ながらの入り組んだ路地と大きなお屋敷が集まる一角がある。北側は木の本、南側が太田といい、空港ができる以前の古い地図にもこのふたつの集落はちゃんと明記されている。神社やお寺の門前町か何かなのだろう。
このふたつの集落は、八尾市が誕生する以前には大正村と名乗っていた。1913年に三木本村から大正村に改称したのだが、理由はもちろんそのときの年号だ。いまならば、市町村合併で新しい市ができるとなって、その名前で揉めるのを避けるために令和市と名付けた、みたいなものだ。
八尾空港が生まれたのは、それよりも少し後のことである。なお、大正村は1948年に八尾町などと合併して八尾市になり、地名としての大正は消滅してしまった。ただ、一帯の小学校や中学校の名前などでその名が残っている。