そこで家康がもちいたのが大筒だった。家康は大坂城を攻めるのが困難であることを予想して、多数の大筒を用意していた。
当時の大筒は鉄の弾丸を飛ばすだけだったので、野戦ではあまり効果が発揮されなかったが、大きくて動かない標的をねらう攻城戦では効果が期待できた。大坂城は広大だが、北西方向は外堀(淀川が外堀に見立てられていた)から本丸までの距離が短かったため、家康は淀川の中州の備前島に大筒を配備させた。この合戦のために300挺が準備されたというが、射程距離が長くて威力があるいわゆる「石火矢」は5門だったという。
そして昼夜問わず、連日砲撃を加えて威嚇することで和議に持ち込んだ。このとき砲弾が天守の柱に命中して天守が傾き、茶々の居間も破壊され、茶々の侍女数人が即死したとされる。
史実と異なる「お涙ちょうだい」
ドラマでは家康が大筒で本丸の砲撃を命じると、城内にいる千の身を案じる秀忠は、泣きながら家康に「やめてくだされ、父上!」と懇願。ついには「やめろーっ! こんなのは戦ではない! 父上‼」と叫び、嗚咽しながら家康にすがりついた。家康は「これが戦じゃ。この世でもっとも愚かで醜い……、人の所業じゃ」と答えたが、いかがなものか。
後述するが、千姫の身を案じていたのは、むしろ家康であって、秀忠は意外にも冷酷だったと伝えられる。史実を無視して父娘愛を強調し、お涙をちょうだいするドラマづくりには違和感を覚える。
また家康の言葉にも、太平洋戦争の惨禍を経験した戦後の日本で醸成された、戦争とは問答無用で否定されるべき「愚かな所業」であるという感情論が反映されている。戦争が「愚かな所業」だという価値観を今日もつのはいいが、当時の人がもっていたように描けば、歴史の歪曲につながってしまう。
2歳で婚約が取り決められた
さて、秀忠と6歳年長の妻、浅井江(茶々の妹)とのあいだに長女の千が、伏見において生を受けたのは慶長2年(1597)5月10日のことだった。豊臣秀吉は翌年8月17日に死去する前に遺言で、まだ数え6歳の秀頼と数え2歳の千との婚約を取り決めている。秀吉は臨終間際に「秀頼のこと頼みまいらせ候」と哀願し、その一環であるこの婚約を、家康は受け入れた。千の運命は生後わずか1年にして、すでに決められたのである。