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そして秀吉の遺言にしたがい、慶長8年(1603)7月、11歳の秀頼と7歳の千の婚礼が執り行われた。家康はこの年の2月、征夷大将軍に任ぜられていたが、この時点では徳川と豊臣の併存を考えていたのだ(それしか方途がなかった)。この婚礼の際、秀忠は江戸に残ったままだったが、母の江は身重なのを押して千に同行し、5月半ばには伏見に着いて家康と対面している(江は7月に伏見で初を生んでいる)。

ところで、江は嫉妬心が強く、秀忠の子女は長男で早世した長丸を除き、二男五女が江とのあいだに生まれた、と一般に考えられてきた。しかし、福田千鶴氏は「江から出生したのは千・初・国松の二女一男のみであり、子々・勝・和・長丸・家光は庶出子と考えられるので、秀忠には長丸の生母以外にも侍妾が置かれていたとみなされる」と述べる(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社)。

いずれにせよ、千は秀忠と江の子であることがまちがいなく、長女であり、二人のあいだのはじめての子女だった。それだけに二人が愛情を注いだことは想像に難くない。

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大坂城から命懸けの脱出

時計を慶長15年(1610)5月7日、大坂夏の陣による大坂城落城まで進めよう。城外戦で豊臣方は奮戦したが、何分にも多勢に無勢。大野治長は負傷して戻り、天王寺や岡山での敗戦も告げられた。それを受けて秀頼らが本丸に引き上げると、徳川への内通者が城に火をかけた。それを機に徳川方の軍勢が進撃し、二の丸が陥落する。

ここまできて豊臣系の将兵らは自害する者が続出し、一方、城から落ち延びる者もいた。そんな光景を千はつぶさに見ていたに違いない。秀頼も千を連れて天守に登り、そこで自害しようとしたが、家臣の速水守久に止められ、本丸北側の山里曲輪に移動して櫓に身を隠した。二十数名がしたがっていたとされる。

そのとき、午後5時ごろだったと伝わるが、大野治長は千と侍女たちを、護衛をつけたうえで城外に脱出させた。それは千を家康らの陣所に送り届け、治長が一切の責任を負うという前提で、秀頼と茶々の助命を嘆願するためだった。