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「一度天皇の許可を経た婚約を破棄してはいけない」

 では、それが約100年前の「宮中某重大事件」とどのように関係するのか。1919(大正8)年6月、宮内省は裕仁皇太子の妃に久邇宮邦彦(くによし)王の長女・良子女王(後の香淳皇后)が内定したと発表する。ところが、良子女王の母方の実家・島津家では色覚異常の遺伝子が受け継がれており、良子女王の子孫にも遺伝する可能性があることがわかった。これを知った元老の山県有朋は、宮内大臣に事態の収拾にあたらせようとする。これ以後の出来事を「宮中某重大事件」と言う。 その後、政府側は久邇宮家から自発的に婚約辞退をするように働きかけを行っていく。

昭和天皇

 ところが、父親である邦彦王はこの後、辞退はしない意思を固め、政府側の動きに対して右翼を利用して反撃に出た。彼らは、「一度天皇の許可を経た婚約は破棄してはいけない」旨の主張を繰り返した。また山県有朋の宮中における専横を強調し、そうした問題を世間に公表することでメディアをも味方に付けようとした。 結局、批判を浴びた政府側の敗北に終わり、1921年2月に裕仁皇太子と良子女王の婚約は予定通り遂行されることが発表された(1924年1月に結婚)。

昭和天皇と香淳皇后 ©JMPA

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 山県有朋は宮中での勢力を失い、邦彦王は婚約辞退を迫られたにもかかわらずそれに抵抗したことで、世間から同情を集めて権威を高めた。「宮中某重大事件」で邦彦王は、天皇の許可は国の「元首」の決定であり、一度下った許可は覆せないというロジックのもと、天皇の許可を利用することによって裕仁皇太子と長女の良子女王の結婚を成し遂げさせようとしたのである。