天皇の許可を受けた後に、婚約破棄を望んだ皇族がいた
ところが邦彦王は「トリックスター」のごとく、逆の事件を起こす。邦彦王の長男である朝融(あさあきら)王は、旧姫路藩主伯爵家の酒井菊子と1917年に婚約していた。これにも大正天皇からの許可があった。ところが、朝融王は次第に菊子のことが気に入らなくなる。邦彦王は息子の意思を受け、婚約破棄に向けて動き出した。しかし、邦彦王は、天皇の許可があることを盾にして裕仁皇太子と良子女王の婚約が予定通り遂行されることを1921年に勝ち取っている。今度は、天皇の許可があるにもかかわらず息子の婚約を破棄しようと動いた。
このように逆のことをすれば、皇太子と娘の婚約・結婚の根拠もなくなってしまう。それゆえ、裕仁皇太子と良子女王の結婚が1924年に成就するまでは、こっそりと朝融王の婚約破棄問題を伏せておこうとした。婚約破棄をすれば非難を浴びるであろうことは重々承知していたようである。宮中はこれに対し邦彦王の説得を試みた。彼の行動を全く理不尽なものとして受け取ったのである。しかし邦彦王は頑としてそれに応じなかった。
最終的には、女性側が婚約辞退を申し出た
最終的には宮中の仲介によって、酒井家側から婚約辞退を申し出ることで事態は進展する。ただし、宮中は「宮中某重大事件」に続きまたもや問題を起こした邦彦王をこのままにしておくこともしなかった。摂政に就任していた裕仁皇太子から旧皇室典範第35条と第36条に定められていた皇族監督権の行使による訓戒処分が邦彦王に言い渡された。つまり、義理の息子から処分が行われたのである。天皇の許可と言っても、基本的には下から上げてきたものを天皇が認める形式だったが、その行為には相当の重みがあったと言えるだろう。だからこそ、それを無視して婚約破棄をした邦彦王に“ペナルティ”が科されたのである。