「静かな絶望の匂い」と「不敵な笑いの味わい」のバランス
このゆさぶりが、独特のリズムを作り出す。オフビートな外しを見せられて、観客も思わず頬をゆるめる。ただし、急いで付け加えておくが、カウリスマキが自身のゆさぶりに溺れ、映画の全体像を崩してしまうことはない。
通常、カウリスマキの映画は「トラジコメディ」と呼ばれる。なるほど、彼の映画には、静かな絶望の匂いと不敵な笑いの味わいが、絶妙のバランスで混じり合っている。
「デッドパン・コメディ」や「メランコリック・コメディ」と評されることも多い。誇張された感情表現や劇的な盛り上げを嫌い、余白や残響の力を信頼する映画作法。その流儀を見れば、これも妥当な評言とうなずける。
この流儀は、20世紀終盤に撮られた〈プロレタリア3部作〉のころから一貫している。『パラダイスの夕暮れ』(86年)、『真夜中の虹』(88年)、『マッチ工場の少女』(90年)と連打された若々しい佳篇の群れ。物静かで、お人好しで、ぶっきらぼうなのに温かいハートを感じさせる登場人物。その底流には、不敵な笑いと乾いた抒情があった。
『浮き雲』を連想してしまう『枯れ葉』のふたり
カウリスマキ当人は、『枯れ葉』を〈3部作〉の延長線上に位置づけているようだ。が、冒頭でも触れたとおり、私はどうしても『浮き雲』を連想してしまう。うらぶれて風に吹き飛ばされそうになっている中年男女(カリ・ヴァーナネンとカティ・オウティネン)のたたずまい(あちらは共に失業した夫婦だった)が、否応なく『枯れ葉』のふたりに重なってくるのだ。
そう、ようやく育ちかけたアンサとホラッパの愛情には、新たな試練が待ち受けていた。アンサが渡した電話番号のメモを、ちょっとした不注意でホラッパがなくしてしまうのだ。メモは風に巻かれ、枯れ葉のように飛んでいく。
ホラッパは、アンサの住所を知らない。勤め先はすでに消滅している。手がかりを失ったホラッパは、映画館の前でひたすら待ちつづけるほかない。背後には『逢びき』(45年)や『軽蔑』(63年)や『ラルジャン』(83年)のポスターが見える。足もとには、煙草の吸い殻の山ができている。