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目的地もわからぬまま1週間近く歩かされ…はじまったシベリアでの生活

 終戦からおよそ1カ月後、杉山はソ連軍によってシベリアに連行された。俗に言う「シベリア抑留」である。ポツダム宣言の第9項では、「武装解除した日本軍将兵の帰還と、帰還者の平和的且つ生産的な生活ができる機会」が保証されているが、ソ連側の行為はこれに抵触するものであった。

 この抑留では、実に50万とも100万とも言われる日本人が拘束されたと推計されるが、その中には「戦時下の箱根駅伝」を制した優勝チームの主将も含まれていたのである。

 杉山は戦友たちと共に、満洲国黒河省の黒河という街からソ連領に連行された。

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 目的地も告げられないまま、一週間近く歩かされた後、ようやく収容所へと辿り着いた。

 そこは元々、刑務所として使われていた場所で、入所者たちが寝起きする部屋は暗い地下にあった。敷地は高さ5メートルほどの丸太の柵で囲われていた。自動小銃を持ったソ連兵らが、常に監視していた。

飲める水は煮沸した河の水1杯だけ、入浴は2週間に1度。ある日、膝の震えが止まらなくなり…

極寒のシベリアの冬 ©AFLO

 極寒の地での峻烈な強制労働が始まった。冬の寒さの厳しい山形市の出身である杉山だが、より苛酷なシベリアの気候は彼の目にどう映ったであろう。雪を見て故郷を想う瞬間もあっただろうか。

 労働の内容は、森林の伐採や土木工事などだった。1500人ほどが6個の作業班に分けられた。

 毎朝、近くを流れる河から汲んできた水を煮沸したものが、飲料水として水筒に1杯ずつ支給された。2週間に一度ほど、地元の公衆浴場での入浴が許された。