長距離走の練習によって鍛え上げられた強靭な身体を誇るはずの杉山だったが、ある時、自分の膝がガクガクと震えているのを自覚した。思うように歩くこともできない。軍医に相談すると「塩分不足」との診断だった。周囲には、同様の症状を訴える者が少なくなかった。
杉山の労働現場にはロシア人もいた。杉山はこのロシア人に頼み、持っていた日本製の手拭を岩塩と交換してもらった。こうして杉山は、自らの生をどうにか繫いだ。
後に杉山は、この抑留生活について『文京の教育』という地域の専門紙に寄稿し、こう書いている。
〈食生活は、人間としての限界まで達したが、そんな生活も落ち着いてくると、ソ連の人々の生活状況も次第にわかってきた。彼等は戦勝国といいながら日常の衣服などは、ひどい状態であった。パンを私達に要求するソ連労務者もいた〉(『文京の教育』第245号、文京教育懇談会)
1年で栄養失調の死者が続出。言葉がわからないことで悲劇が…
結局、約1500人いた抑留者の内、1年ほどの間におよそ50人が死亡。その大半が栄養失調だったという。
不条理極まりない悲劇もあった。ある日、兵舎の周囲の草むしりをしていた1人が、知らない内に「立ち入り禁止」の区域へと足を踏み入れてしまった。櫓の上からソ連の警戒兵が何やら叫んだが、言葉がわからない。やがて、辺りに乾いた銃声が鳴り響いた。あまりにやりきれない死であった。
そんな日々の中で、杉山の支えになっていたものは何だったのであろう。箱根駅伝のことを思い出す時間もあったのだろうか。
ソ連将校によって遺体から剥ぎ取られた軍服
日本人たちは、死亡者が出ると遺体を手作りの棺に納め、裏山に埋葬して墓標を立てた。
墓標には姓名、階級、死亡した日付を記しておいた。しかし、ソ連の将校が遺体から軍服を剥ぎ取って持って帰ってしまうというような事件も起きた。戦勝国とは言え、ロシア人たちの生活は極めて貧しく、泥棒や墓荒らしといった犯罪が蔓延していた。しかし、中には日本人に親切にしてくれるロシア人もいたという。