2024年に第100回大会を迎える箱根駅伝。いまやお正月の風物詩となったこの大会も、戦争が激化した1940年には中止決定に追い込まれていた。
ところが一転、1943年には「戦前戦中における最後の箱根駅伝」が開催されている。なぜ、大会は開催されることとなったのか。そこには一人一人の“想い”があった。ノンフィクション作家である早坂隆氏が、知られざる“戦時下での箱根駅伝”の真相に迫った著書『戦時下の箱根駅伝』より、一部を抜粋して引用する。
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軍学校を説得せよ!
大会復活に向けた交渉の中で、最も難航したのは陸軍との折衝だった。そもそも箱根駅伝が中止に追い込まれたのは、軍需物資の輸送を優先するために国道1号の使用許可が下りなかったことが最大の要因であった。
大日本学徒体育振興会で陸上委員長の役にあった鈴木武は、かつて日本学生陸上競技連合の会長を務めていた。鈴木は後の首相・鈴木貫太郎の甥に当たる。豊富な人脈を持つ鈴木は、軍部にも一定のパイプを有していた。
関東学連は、この鈴木に協力を求めた。学生たちの熱意に心を動かされた鈴木は、陸軍との調整役を承諾。関東学連側には、
「陸軍戸山学校を説得するように」
と促した。陸軍戸山学校は東京の牛込区戸山町(現・新宿区戸山)に拠点を置いた軍学校である。明治6(1873)年に開設された陸軍兵学寮戸山出張所がその起源となる。この陸軍戸山学校への談判が、箱根駅伝復活に向けての大きな鍵になると鈴木は見据えていた。
では、なぜ陸軍戸山学校なのか。当時の関東学連幹事・中根敏雄はこう振り返っている。
〈何事も戸山学校へ行かなくてはならない。戸山学校は鍛錬部の学生の大もとなんです。教官みたいなのばかりがいるところですから。そこへ行って話をして、了解をもらうことが第一です〉(『箱根駅伝70年史』関東学生陸上競技連盟)
こうして関東学連の幹部たちは陸軍戸山学校へと連日のように通い、箱根駅伝の復活を直訴した。