文春オンライン

箱根駅伝の裏側

「多くの人が集まる大会で敵から攻撃されたらどうする」という指摘を跳ね返し…わずか1回だけ実現した1943年“戦時下の箱根駅伝”

「多くの人が集まる大会で敵から攻撃されたらどうする」という指摘を跳ね返し…わずか1回だけ実現した1943年“戦時下の箱根駅伝”

戦時下の箱根駅伝#1

2023/12/26
note

いよいよ国道1号の使用許可が!しかし課題がもうひとつ…

 関東学連側のこうした柔軟な姿勢により、軍部も次第に態度を軟化させた。

 陸軍戸山学校の校長は、昭和17(1942)年3月から皇族の賀陽宮恒憲王が務めていた。伊勢神宮祭主・賀陽宮邦憲王の第一王子である賀陽宮恒憲王は、質素で庶民的な生活を好み、野球や乗馬といったスポーツにも造詣が深かった。そんな賀陽宮恒憲王が、陸上競技に一定の理解を示した可能性も充分に考えられる。

 一方、大日本学徒体育振興会の鈴木武も、独自のルートで陸軍との折衝を順調に進めていた。

ADVERTISEMENT

 以上のような多くの関係者たちによる奔走の結果、陸軍は国道1号の使用を遂に許可。箱根駅伝復活への道のりは、こうして大きく前進した。『慶応義塾体育会競走部史』には、こう記されている。

〈「戦勝を祈願する」という趣旨を“隠れミノ”に当局の許可を獲得、ようやく22回大会としたものだ〉

 平成15(2003)年11月14日、第80回を迎えた箱根駅伝を祝う記念シンポジウムが有楽町の「よみうりホール」で行われたが、この時の開会の挨拶で当時の関東学連会長・廣瀬豊が「戦時下の箱根駅伝」に触れてこう述べている。

〈先輩のみなさんに協力を得ながら、当時、飛ぶ鳥を落とすような勢いの軍部と対等に向かい合いまして、何度も何度も折衝を続けた結果、ついにその夢を実現したのでございます〉(『陸上競技』2004年1月号)

 陸軍の許可も得られたことにより、各方面との交渉はより円滑に進展するようになった。

 ただし、もう一つ大きな課題が残っていた。資金面での問題である。