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「予算はないし、みな学生がやらなくてはいけない」
戦時下で進められた新聞社の統廃合により、それまで大会を支えてきた報知新聞社は読売新聞社に合併されていた。箱根駅伝が中止になった折、学連と報知新聞社との間に何かしらの確執があったことも、前述した通りである。そのため、大会の復活に向けて新たな協力体制を構築する必要があった。
結局、交渉の末に読売新聞社は協力を約束したが、関東学連の幹事だった中根敏雄は戦後にこう語っている。
〈しかし予算はないし、そういったことはみな学生がやらなくてはいけない。読売新聞は多少は応援するが……という程度でしたから、みんなで集まって各学校から2人代表を出して駅伝の準備に取りかかった訳です〉(『箱根駅伝70年史』関東学生陸上競技連盟)
昭和17(1942)年11月末、箱根駅伝の復活が正式に決定。開催時期は、翌昭和18(1943)年の1月と定められた。青梅大会を除けば、実に3年ぶりとなる箱根駅伝の開催であった。