2024年に第100回大会を迎える箱根駅伝。戦争の激化によって1940年には中止決定に追い込まれたものの、1943年には一転して「戦前戦中における最後の箱根駅伝」が開催されることになった。優勝を果たしたのは日本大学だったが、ゴール現場ではどの大学の選手たちも学校に関係なく、泣いて抱き合って喜んだという。
一方で、大会後には「学徒出陣」も始まり、時代はまた箱根駅伝から遠ざかっていった。1943年のあの日タスキをつないだランナーたちが、その後、戦地で見たものとは……。
知られざる“戦時下での箱根駅伝”の真相に迫ったノンフィクション作家早坂隆氏の著書『戦時下の箱根駅伝』より、一部を抜粋して引用する。
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1945年8月、満洲にいた「日本大学の駅伝主将」
日本大学陸上競技部の駅伝主将・杉山繁雄は、「戦時下の箱根駅伝」において往路の5区を走り、「4人抜き」の快挙を達成。復路では伴走役を務め、声を嗄らして選手たちを激励した。まさに優勝を手繰り寄せた立役者であった。
大会後の昭和18(1943)年9月末、杉山は日大を繰り上げ卒業。青森県弘前市の野砲隊に入隊した。
その後、百束さんは弘前から東京の陸軍糧秣本廠へと赴任したが、杉山は幹部候補生として満洲に出征した。
杉山は満洲の各地を転々とした後、新京に駐留。新京は満洲国の首都である。
昭和20(1945)年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄。満洲各地に侵攻を始めた。
やがて、杉山の所属部隊にも、
「ソ連軍の戦車が進撃してくる」
との情報が入った。杉山は戦友たちと別れの水盃を交わした。
しかし、そこで終戦。
杉山は何とか生きて戦後を迎えることができた。しかし、杉山にとっての戦争は、それで終わらなかった。