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箱根駅伝の裏側

止まらない膝の震え、死亡率40%以上の収容所…戦時下の箱根駅伝を走ったランナーと“むごすぎるシベリアの雪景色”

止まらない膝の震え、死亡率40%以上の収容所…戦時下の箱根駅伝を走ったランナーと“むごすぎるシベリアの雪景色”

戦時下の箱根駅伝#2

2023/12/26
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 その後、遺体の火葬が許されるようになった。

 杉山の戦友の1人も急性肺炎で亡くなり、荼毘に付された。杉山はその遺骨の一部を自分のトランクに隠し、大切に保管した。さらに、火葬前に手に入れた遺髪を自分の軍服に縫い込んでおいた。もし帰国できた時、彼の遺族に手渡そうと考えたのである。

入所者死亡率40%以上の収容所を耐え抜き、帰国が叶った2年後の“後日談”

 しかし、チタ州のブカチャーチャという村の収容所に移動になった際、遺骨は見つかってしまい、ソ連側に没収されてしまった。

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 ブカチャーチャの近隣には、良質な石炭の出る大きな炭坑が複数あり、多くの日本人抑留者がそこでの労働を強いられた。この地にあった第23収容所の衛生状態は極めて劣悪で、発疹チフスの流行によって多くの者が息絶えた。発疹チフスは、虱やダニによる感染症である。

 この収容所における入所者の死亡率は、実に40%以上にも及んだとされる。

 その後、杉山はブカチャーチャから程近いカクイという町の収容所へと移された。カクイはシルカ川沿いの町で、そこには大きな造船所があった。その造船所では500トン級の船を造っていたが、杉山は船体の部品を製造する仕事などに従事したという。

シベリアからの帰還第1船「大久丸」の甲板にたたずみ、上陸を待ちわびる復員兵ら ©共同通信社

 その後、ようやく帰国が叶ったのは、抑留開始から実に2年余りもの歳月が流れた頃であった。

 軍服に縫い込んでおいた遺髪は帰国後、無事に遺族に渡すことができたという。

 シベリア抑留で命を落とした日本人の数は、一般的におよそ5万人と言われるが、実際の犠牲者数はその数倍に達するという研究報告も少なくない。許されざるソ連の国家犯罪である。

 その後、杉山は山形県の県庁に奉職。昭和50(1975)年の定年まで実直に職務を全うした。

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