令和6(2024)年1月2、3日、箱根駅伝は「第100回」という記念すべき節目の大会を迎える。
大正9(1920)年から始まるその長大な歴史の中には、知られざる「戦時下の大会」もあった。大東亜戦争(太平洋戦争)下の昭和18(1943)年1月に挙行された第22回大会である。
謎の部分が多いとされるこの「戦時下の箱根駅伝」について、実際に大会を走った元選手たちの証言を交えながら、その実像に迫りたい。
“シューズ”の調達にも苦労した1943年のその日、スタート地点にたった大学のランナーたち
昭和18年1月5日、「戦時下の箱根駅伝」の往路が始まった。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃以降、各地で戦況を優勢に進めていた日本軍だったが、昭和17年6月のミッドウェー海戦での敗戦以後は劣勢が続いていた。
そんな戦況が日に日に苦しくなる中で行われた大会である。物不足もすでに深刻化しており、選手たちは足袋(当時は長距離走用の足袋が重宝された)の調達にも苦労するような状態であった。
往路のスタート地点は「戦勝祈願」の意味も込めて靖國神社。往路のゴールは箱根神社である。
気になる参加チームは以下の計11校。
青山学院、慶應義塾大学、専修大学、拓殖大学、中央大学、東京農業大学、東京文理科大学(現・筑波大学)、日本大学、法政大学、立教大学、早稲田大学
現在は強豪として鳴らす青山学院だが、同校にとってはこの大会が初めてとなる出場であった。
各校の選手たちはいずれも「この大会が終わったら戦争だ」との思いを胸に、レースに臨んでいたという。