そして迎えた8月15日、敗戦。その時、児玉さんが抱えたのは、
(俺は今まで何をやってきたのだろう)
という自らへの深刻な問い掛けだった。全てが無駄になったような感覚だった。児玉さんは半ば無意識のまま近くの松林へと走り、そこで持っていた軍刀を力任せに振り回した。怒りとやるせなさに児玉さんは荒れに荒れた。その時の胸懐について、私は改めて問うた。
「悔しいという思いだったのでしょうか」
児玉さんから発せられた返答は次のようなものだった。
「〈悔しい〉ではなく〈虚しい〉ですね」
児玉さんの虚しき戦争は、こうして幕を閉じた。
帰らなかった選手たちと「タスキの重み」
それでも児玉さんは生きて戦後社会を迎えることができた。しかし、それさえ叶わなかった選手たちもいた。
立大の6区を走り、区間5位の好記録を残した古賀貫之は、海軍飛行専修予備学生の第13期生となり、台湾の高雄海軍航空隊に赴任。厳しい訓練を経て海軍少尉となったが、その後に「零戦での訓練中の事故」によって若い命を散らした。「戦死」ではなく「殉職」という扱いである。
日大の7区を走った山手学は、「活発」「積極的」な青年だったと伝わるが、航空機の搭乗員となった彼が故郷に戻ってくることはなかった。「特攻死だった」という話も残っている。
100回を迎える箱根駅伝。その歴史の中に「戦争の時代」があったことを私たちは忘れてはいけない。
「タスキの重み」とはよく言われる表現である。タスキには、先人たちの無数の哀歓が詰まっている。
生と死の物語が染み込んだ幾つものタスキによって、箱根駅伝という一枚の布地は編み込まれている。
(写真=『戦時下の箱根駅伝』より)