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箱根駅伝の裏側

たった1回だけ行われた「1943年戦時下の箱根駅伝」とランナーたちの“その後”〈未舗装の山道、ゴールではみんなが泣いて抱きあい、そして…〉

たった1回だけ行われた「1943年戦時下の箱根駅伝」とランナーたちの“その後”〈未舗装の山道、ゴールではみんなが泣いて抱きあい、そして…〉

2023/12/26
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沿道に集まる観衆…すでに「一大スポーツイベント」だった箱根駅伝と元慶大ランナーの貴重な証言

往路のスタートを切る選手たち

 沿道には戦時下とは思えないほど、多くの観衆が集まっていた。戦前戦中の日本において、箱根駅伝はすでに「一大スポーツイベント」にまで成長していた。

 1区で首位に立ったのは立教大学。2位には日本大学が続いた。立大のユニフォームには「R」、日大の胸には「N」の文字が付されていた。戦時下、野球界では「敵性語」として英語の排除が進んでいたが、陸上界ではそのような動きはあまりなかった。「敵性スポーツ」とされた野球に比べ、日本発祥の駅伝はほぼ敵視されなかった。

 2区でも「R」は首位を守り、2位は同じく「N」であった。

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昭和18年当時の3区の様子

 3区で快走を見せたのが、日本大学の河村義夫。河村は首位・立大を逆転し、トップに立った。

 2位に順位を上げたのは慶應義塾大学。近年では不出場が続いているが、戦前の慶大は強豪校の一つであった。タスキの柄は、「青・赤・青」のストライプ。応援も熱狂的で、各地の沿道に陣取った慶大の応援団からは、応援歌「若き血」や、カレッジソングである「丘の上」の大合唱が走者へと届けられた。

 そんな慶大の4区を走ったのが児玉孝正さん(取材時、92歳)である。2位でタスキを受け取った児玉さんは、首位の日大を追って走り始めた。児玉さんが当時のレースについて証言する。

「天気が良くて走りやすかったですね。自分の調子は普通でした。その内、徐々に先頭の日大の選手の背中が見えてきたのですが、後ろから見てもとても苦しそうに走っている様子が窺えました。『どうやら普通の状態ではないな』というのがわかったのです。それで『これはチャンスだ』と必死になって追いました」

大磯で日大に追いつく慶應。聞こえる互いの息遣い

首位の日大を追う慶應の児玉さん。下は現在の同地点の様子

 児玉さんは大磯の辺りで日大に追いついた。「相手の荒い息遣いが聞こえました」という児玉さんが、証言を続ける。