正月が終わり、1943年、1944年、1945年…箱根ランナーの戦争体験
慶大の4区を走った児玉孝正さんの大会後について綴っておきたい。
昭和19(1944)年、児玉さんは海軍予備学生に志願。海軍予備学生とは海軍の予備将校制度の一つで、大学や大学予科の卒業生などから採用される。
広島の大竹海兵団で新兵としての基礎教育を受けた後、児玉さんは遼東半島の旅順方面特別根拠地隊に赴任。その後、新兵器「震洋」の訓練課程に進むため、長崎県の川棚町への異動が命じられた。「震洋」とは、ベニヤ製の小型モーターボートの先端部に炸薬を搭載した「海の特攻兵器」である。
「川棚にいたことのある教官から、震洋について聞きました。私は2人乗りの震洋に乗るという話でした。その時の気持ちですか? 『もうしようがない』といったところですね。『生きて帰れない』という命の覚悟自体は、海軍に入った時にすでにできていますし」
昭和20(1945)年の夏、児玉さんは大連の港から輸送船に乗った。しかし、深夜に大連港を出て1時間ほど経った頃、乗艦していた輸送船が触雷。船は無惨にも傾斜を始めた。
「あの辺りの海は夏でも冷たく、20分も海中にいたら身体は冷え切って死んでしまいます。ですから、安易に船から海に飛び込んではいけない。いくら傾斜がきつくなっても、『もう駄目だ』という沈没寸前まで船にいないといけないんです。しかし、どんどん船体が傾いていく中で、いつ沈没するかなんてわかりませんからね。そのギリギリの見極めが大変です」
危機的な場面だったが、児玉さんはなんとか一命を取り留めた。
白紙になった搭乗計画、訪れた8月15日。胸にこみ上げてきた「思い」
その後、川棚町が空襲に見舞われたこともあり、「震洋」への搭乗計画は白紙に。児玉さんが新たに命じられた赴任先は、神奈川県の横須賀だった。その後、児玉さんは湘南の茅ヶ崎へと異動。米軍の上陸作戦に備えるための猛訓練が始まった。
その場所は、かつて箱根駅伝で母校のタスキを胸に走り抜けたコースから、さほど遠くない場所だった。「学生生活最後の駅伝」との思いで全力を尽くし、首位を走ったあの日から、2年半ほどの歳月しか経っていなかった。