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8区、9区でも慶大は首位を守った。慶大の9区を走ったのは、戦後に経済評論家として多くの著作を残すことになる高島陽である。
最終10区の走者へとタスキが繋がれる鶴見中継所には、黒山の人だかりができていたと伝わる。
優勝争いは依然として慶大、日大、法大の三つ巴。戦時下の大会は、10区でのアンカー勝負となった。
「どの大学の選手たちも、学校の別に関係なくみんなで泣き、抱き付いて喜んだ」「戦争へ行っても、箱根のことを忘れずに頑張ろう」
復路のゴール地点である靖國神社に首位で戻ってきたのは日大の永野常平だった。日大のチームメイトだった成田静司の日記には、次のように綴られている。
〈遂に永野氏トップに出て九段へ入ったのはピンク、ピンクだ日大だ。熱戦の末遂に勝った〉
戦後、日本大学陸上競技部で長く指導にあたった水田信道さんは、生前の成田と親交があった。水田さんは成田から、「戦時下の箱根駅伝」のゴール時に関し、次のような話を聞いたことがあるという。
「成田さんはこうおっしゃっていました。『どの大学の選手たちも、学校の別に関係なくみんなで泣き、抱き付いて喜んだ』と。おそらく、もう単純な勝ち負けということではなかったのでしょうね。『戦争へ行っても、箱根のことを忘れずに頑張ろう』と互いに励まし合ったそうです」
総合成績としては、2位が慶大、3位が法大であった。以下、中央大学、東京文理科大学と続いた。初出場の青山学院は最下位に終わっている。しかし、まさに「単純な勝ち負けではなかった」ということであろう。