文春オンライン

箱根駅伝の裏側

たった1回だけ行われた「1943年戦時下の箱根駅伝」とランナーたちの“その後”〈未舗装の山道、ゴールではみんなが泣いて抱きあい、そして…〉

たった1回だけ行われた「1943年戦時下の箱根駅伝」とランナーたちの“その後”〈未舗装の山道、ゴールではみんなが泣いて抱きあい、そして…〉

2023/12/26
note

「自分も苦しいが、相手も苦しい。苦しさの中で大切になってくるのが精神力です。精神が苦しさに負けてしまうと、それが諦めにつながってしまう。心が負けてしまったら終わりですね」

 児玉さんは日大を抜き、慶大を首位へと押し上げた。4区での見事な逆転劇であった。

舗装路ではなかった当時の箱根。砂利道が続く山道を越えた往路の勝者は…

 東京農業大学の5区走者として、「山登り」に挑んだのが百束武雄さん(取材時、93歳)。9位でタスキを受けた百束さんの胸には、「ニワトリのマーク」が付されていた。百束さんが微笑みながら懐古する。

ADVERTISEMENT

農大の「ニワトリ」マーク

「現在では違いますけれども、当時の農大のユニフォームはこの『ニワトリのマーク』で有名でした。それで、沿道の子どもたちが『ニワトリのチームだ』と喜ぶわけです。『ひよこ、ひよこ』『コッコ、コッコ』なんて言って、随分と応援してくれましたね」

 楽しげな沿道の様子が目に浮かぶ。箱根の山道についてはこう語る。

「宮の下から登って行く辺りの砂利道がひどかったですね」

 当時の箱根路は、現在のような舗装路ではなかった。百束さんはそんな山道を懸命に登った。

「山の途中で、専修大学の走者が『ブレーキ』になって歩いていましてね。それで順位を一つ上げることができました。そのことは今でもよく覚えています」

 百束さんは8位でゴールした。

 結局、往路を制したのは慶大。2位が日大、3位が法政大学だった。

慶應、日大、法政の抜きつ抜かれつで復路も激戦が続く。勝負はアンカーに託された

昭和18年当時の8区の様子

 翌日の復路も激戦が続いた。6区では法大が首位を奪取。しかし、7区では慶大が再び首位に立った。優勝争いは慶大、日大、法大の3校に絞られた。