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 手負いにしてはまずいと追跡したものの見失った一行は、探検を行った後に帰路に就いたが、最後方にいた菅野にヒグマが襲いかかり、一撃で頭を割ると熊笹の中に引きずり込んだという。これを見たアイヌ3名は逃げ出し、40キロ余りの山道を駆けて、新得村の駐在所に菅野の遭難を通報した。

 通報を受けて組織された捜索隊は菅野遭難の翌日、現場近くの沢にいたヒグマを発見し射殺。6、7歳くらいのオスで、百貫(約375キログラム)に達する巨熊であったという。後にこのヒグマの皮は十勝公会堂の貴賓室に敷かれていたが、1931年に盗難にあって以降行方不明だという。

牛を襲い続けたOSO18の姿(標茶町提供) ©時事通信社

都道府県の議員がクマによって命を落とした唯一のケース

 探検中にヒグマに襲われ(逆襲され?)命を落とした菅野であるが、ここで問題になったのが十勝日日新聞社の今後だった。社長の突然の死で後継問題が浮上する中、十勝日日新聞の理事であった林豊洲(豊洲は雅号。本名茂)が十勝日日新聞の社屋で1919年に旬刊帯広新聞を立ち上げ、翌年に日刊紙として十勝毎日新聞に改めた。

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 これが現在も十勝地域で大きなシェアを持つ、十勝毎日新聞の始まりであった。菅野の遭難はクマにより都道府県議会議員の命が失われた唯一の事例であると共に、熊害が新聞社の創設の端緒となった恐らく唯一の事例だろう。

 こうした北海道の開拓における熊害とそれと格闘してきた人々の記録を長年集めてきた研究者がいた。その研究者はのちに、北海道のヒグマに大きな影響を及ぼした後に中止され、今年になって30年以上ぶりに再開された政策を提言した人物でもあった。