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人生は清く正しく美しくでいいのか? という深い問いかけ
上層貴族が本当の恋愛をしたいと思ったら、自分で見つけ出した人と関係するしかない。結局のところ光源氏の物語の終わりは彼の死ではなく、光源氏の正妻格であった紫の上の死だったことに象徴されるように、紫式部が描きたかったのは光源氏がどれだけ色恋を謳歌したのか、ということではないわけです。最愛の妻がいなくなると光源氏の恋愛物語も終了してしまうのですから。
いまの読者が読むと光源氏のようにチャラチャラしていない一途な男がいいと言うけれども、光源氏が世を去った第三部の宇治十帖に入ると、そのとおりの男主人公が出てきます。薫です。光源氏のようなキラキラの匂宮と薫が出てきますが、薫との恋愛はめちゃくちゃつまらない(笑)。女たちよ、本当に薫でいいんですか? と問うような展開で、実際に薫と匂宮の間で板挟みになった浮舟は、「やっぱり好きなのは匂宮だった」となっている。
女に悲しい思いをさせる男よりも実直な男の方がいい、というようなことは実際に当時も言われていたのかもしれません。物語の前半で、光源氏の実の息子である夕霧もまた実直な男として描かれていて、正妻ともう一人の女性(落葉宮)のもとへ律儀に15日ずつ通う。全然色気がないけれども、これで本当にいいの? というようなことを紫式部は言っているかのよう。あなたは本当に、ただ清く正しく美しくという人生で満足できるの? 人生とはそういうもの? と様々に問いかけてくるわけです。最後の浮舟をめぐる展開をとってみても、『源氏物語』はそういう深いところを描いていると思います。