『平安貴族サバイバル』『女子大で『源氏物語』を読む』などの著作があり、平安文学をとりわけ〈性と権力〉に着目して読み解かれてきた木村朗子さん。新年スタートの大河ドラマ『光る君へ』へのスタートを前に、このたび、『紫式部と男たち』(文春新書)を上梓した。
『源氏物語』はいかにして書かれ、読まれたのか。紫式部と同時代を生きた男たちの実像を通じてその歴史を描き出すダイナミックな一冊だ。前編に引き続き、本書の読みどころを聞いた。そして、『光る君へ』をもっと楽しむためのブックガイド+映画・ドラマガイドも。
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古典は現代アートや純文学と同じ、数をこなして見えてくる
木村 現代アートや純文学なども同じですが、古典作品の狙いや面白さというものは、ある程度数をこなさないと見えてこないんです。多くの作品を鑑賞することで文脈がわかり、面白さがわかってくる。だから、私は『源氏物語』はいまがいちばん面白いです。若いときはあまりに高い山で、自分が何合目を登っているのかもわからず、下ばかり向いて必死に登っていた感じでした。『源氏物語』研究はとにかく歴史が厚いので、有名な人たちがすべてを語り尽くしているような気がしていたんです。これ以上、何か付け加えることがあるのだろうか、と。
私の場合はジェンダー、セクシュアリティ論という100年前にはなかった新しい理論がなければ、何も書くことができなかったと思います。研究とはちがったアプローチといえば、現代語訳や翻案にたずさわる小説家たちの眼力や読み解きにはいつも刺激を受けてきました。
道長と行成の不気味な運命の糸
――他に木村さんが特に力を入れて書かれたところがあれば教えてください。
木村 藤原行成をとりあげたところでしょうか。行成は道長とまったく同じ日に亡くなっていて運命的で怖いんですが、歴史的事実なんです。行成は霊界と繋がった何かがありそうな、夢見の才があって、道長の栄華の夢を見るんです。だから道長についたのだろうし、道長も行成を手放せない。歴史的にはただの役人で、行成が書いた日記『権記』を読んでみても特別面白くは思えない。でも、日記の要所要所をちょっとつまんでみると、道長と行成との不気味な運命の糸のようなものが見えてくるんです。それは歴史的な出来事としては書けないかもしれません。でも文学的な妄想力を働かせてみると、チャーミングな行成像が浮かび上がってくるんです。
また、筆跡が重んじられていた当時、行成の書は人気だったらしく、一条天皇は自ら行成に書を頼んだり、道長が和歌集を行成の自筆ですべて書き直してもらえるよう、お願いしたりしているんですね。書がうまく、和歌は詠めないが夢見の能力がある。道長のような権力者は行成のような運命の導き手を必要としたともいえるし、逆に言えば行成をちゃんと取り立てた道長は偉いと思います。
藤原道長は時代を作った名キュレーターだ
――とすると、藤原道長は実の娘、彰子のサロンの中心に紫式部をスカウトするところを見ても、行成を取り立てたところをみても、人の才能を見抜く名キュレーターのような存在だったということでしょうか。
木村 あ、いいですね!道長、キュレーター説。道長はただ権力闘争に明け暮れただけの人ではなく、文化的な素養もあった。そのうえで道長をキュレーターとして見ると、まさにこの時代を作った人と言えるのではないでしょうか。行成とは実際に文化的なところで、あるいは人生の上で大事な相棒として気があったんでしょうし、それこそソウルメイトだったんでしょう。
紫式部が『紫式部日記』でなぜあんなにも清少納言の悪口を書いてるのかというと、おそらく清少納言の才能への嫉妬というよりも、自分の方が優れてるという道長へのアピールのためだったのではないかと思うんですね。同じように和泉式部をけしからんと書いているのは、道長と恋人関係にあったことを指していたのかもしれません。ソウルメイトだったのか、はたまた恋人関係だったのか。道長と紫式部の関係が『光る君へ』でどう描かれるかも楽しみですね。