兵庫県川西市の木村隆二被告は2023年4月、和歌山市を遊説で訪れた岸田文雄首相に手製のパイプ爆弾を投げ込んだとして殺人罪など5つの罪で起訴された。うち、黒色火薬が入った2つ目のパイプ爆弾を手に持っていたことが「爆発物取締罰則違反」(所持)の罪に問われている。
台湾政府のお尋ね者だった史明だが、時限爆弾を無許可で作り、所持していたことが露呈すれば、日本の法律でも大きな罪に問われるところだった。
台湾人も乗った新左翼の潮流
1960~70年代の日本は、日米安保反対闘争や大学紛争、連続企業爆破事件などが吹き荒れ、極左が台頭。爆弾や火炎瓶を使ったテロ行為が相次いだ。とはいえ、オリンピックを成功させ高度経済成長の繁栄を謳歌していた都心の繁華街で、殺傷能力のある時限爆弾が手作りされていたとは、なかなかスリリングな逸話だ。
ただ史明本人は生前、「稚拙な手作り爆弾の破壊効果は限定的だった」と述懐していた。台湾の国立アカデミー、中央研究院の台湾史研究所副研究員・呉叡人も、「史明たちのテロは散発的で統一感に欠け、台湾社会全体を揺るがすまでには至らなかった。ただこの時代の台湾人が、社会を変えたい思いで命を懸けて行動したことが重要。同時代の世界は、ベトナム反戦運動やパリ5月革命など左翼的な社会運動が最も高揚した時期であり、台湾も世界の潮流と無縁でなかったことの証左でもあるのだから」とその意義を語る。
史明が池袋『新珍味』で時限爆弾を手作りしていたことは、本人が生前に語っていたが、詳細な実態はベールに包まれていた。このほど、台湾現地のミュージアム「史明文物館」や国立政治大学の研究者が、ドーム型かまど「墓亀」や時限爆弾の設計図などを掘り起こし、「墓亀」作りを手伝った生存者を探し出したことで実態が浮き彫りになった。
「東京新珍味史明記念館」は、『新珍味』の4階を、かつて史明が起居していた当時の状態に復原し、遺稿や遺品を展示している。幅50cm程度と狭く急勾配の階段を上る必要があるが、3階から4階に至る階段は、コンクリート剥き出しで暗くひんやりしており、こっそりアジトに忍び込む感覚をリアルに追体験できる。1~3階が『新珍味』の店舗だが、史明が地下工作活動をしていた当時は3階を畳敷きの集会室に充て、勉強会や雑魚寝合宿をしていた。4階が史明の居室。倉庫となっている5階(非公開)にはかつて厨房・浴室・便所があり、爆弾を作った「墓亀」は1980年代に撤去された。