『ともぐい』(河﨑秋子 著)新潮社

 去年の夏。札幌ドーム前の停留所で空港からのバスを降りた。そこに「熊出没注意」の看板があった。

 明るい午後だ。高校生の小さな群れに笑いがこぼれる。のんびりジョギングの老人もいる。こんな場所にヒグマが。こちらの想像力は行き場をなくす。

 いまは危なくないだろうと思ってもスタジアム屋内への足はつい速くなった。熊が人里どころか都会にまで現れる。このところ耳にする「アーバンベア」が像を結んだ。

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 熊は熊だから熊がおかしくなるのは人間のせいだ。「出没注意」と気候変動や少子高齢化は無関係ではない。なんて頭ではわかったつもり。ならば熊とは。熊を追う人とは。市民社会の理屈をすっ飛ばし、ばらされた臓物のぬくさや雪に広がる血の本当の色のごとき生々しい姿を本書は教えてくれる。

 熊爪。忘れがたき名の男は、明治期の北海道東部の「手つかずの山の中」に暮らす。猟師は職業であって職業ではない。1匹の犬と1丁の村田銃とともにひたすら生きている。

「とった」

 冒頭、鹿を仕留めてつぶやく。殺すのではなく、戴くのでもなく、とる。憎悪も感謝もない。おのれがこの先も息をするために追いかけ、潜み、狙い、倒し、切り刻んでは吊るす。

 手負いの熊の「穴持たず」や巨大な「赤毛」との攻防の描写は奥歯を噛ませる。大型動物の頭蓋骨の硬さや唸り声の「ゴボッ」の響きが活字より染み出て、触覚と聴覚に働きかける。

 岩場で穴持たずに組み敷かれた。「白い上下の牙の間を伝う唾液」が「自分の喉元を狙って落ちてくる気配をはっきり感じた」。そう。これは喜怒哀楽には、それどころか現実にすら収まらぬ気配をめぐる物語でもある。

 評者はスポーツライターだ。以下のくだりを読んだら、もう「炎のタックル」とは書けない。

 腰骨に傷を負った熊爪は暗闇に火をおこし、炎となるまで「育てる」。常備の干し肉をそいつで炙った。冷たいままでも口に入る。なのに「火によって温められた食い物を求めていた」。なぜ。「獣では作り出すことができない火の温かさを、本能の部分で求めていた」。写実と想像が互いに削らずページに溶ける。これぞ熊文学。炎のタックルなんて軽い軽い。

 熊爪は、ときに肉や皮や肝を背負い、糧を得るために白糠の町一番の金持ちの屋敷を訪ねる。すでに山を知っている読者には俗に漂う民が肚のない人形に映る。ひとり視力のないはずの女を除けば。

 忘れがたき一言をおしまいに。格闘のさなかに「真っ黒な冷静さ」を瞳にたたえる赤毛へ。

「すげえな。大将だ。おめえ」

 お見事! と敵を称えるのは決闘の極致である。ここはスポーツの勝負にも通ずる。

かわさきあきこ/1979年北海道生まれ。2012年「東陬遺事」で北海道新聞文学賞受賞。14年『颶風の王』で三浦綾子文学賞、同作でJRA賞馬事文化賞、19年『肉弾』で大藪春彦賞、20年『土に贖う』で新田次郎文学賞を受賞。本書で2度目の直木賞候補。
 

ふじしまだい/1961年、東京都生まれ。スポーツライター。ラグビー解説者。著書多数。近著に『事実を集めて「嘘」を書く』。