なにを当たり前のことを――と思われるかもしれないが、映画はフィクションである。そのことが、時として見る側に安心感を与えることがある。
劇中でどんな悲劇に遭ったとしても、恐ろしい人間が出てきたとしても、それはあくまでも役者の演じる作りごと。そう思えることで、心に救いがもたらされる。つまり「役者」とは、いま目の前の映像で起きていることがフィクションであることを保証している存在でもあるのだ。
ただ、時としてその不文律が壊されることがある。それが「この人、役者なのか――。本当にそういう人なのではないか――」と思える瞬間。「プロの役者」でない者を配し、功を奏した際に生まれる現象だ。演技というオブラートのない、剥き出しになった身体が、ドキュメンタルな存在として目に飛び込んでくる。そして、そのことが観る者にとっての「保証」を奪い、生々しい迫力を生む。
今回取り上げる『たそがれ清兵衛』における田中泯が、まさにそんな存在だった。
舞台となるのは、江戸時代の雪深い小藩。主人公の貧乏藩士・清兵衛(真田広之)は、剣の腕を買われ、藩の重役から刺客の役を命じられる。
相手は、余吾善右衛門。切腹の命令を拒み自宅に立て籠る、藩随一の剣の使い手だ。刺客も既に一人斬っている。この善右衛門を田中が演じたのだが、とてつもなかった。
あばら家の暗闇の中に浮かび上がる幽霊の如きシルエット。異様に鈍く輝く眼光。顔に深く刻まれた皺の数々。本物の歴戦の剣豪がそこにいるかのように映っていた。
今でこそ名優・怪優として認識されている田中だが、本職は前衛の舞踊家。映画を含め、役者として演技するのは本作が初めてのことだった。それだけに、公開時に鑑賞した際、田中のことを知らなかった筆者は、画面に善右衛門が初めて映った時、「誰だか分らないけれども、危険な人が現れた――」と身震いした。
山田洋次監督の、見事なキャスティングである。何せ主役は真田広之、しかも剣豪役だ。どんな強そうな役者が相手役に来ても、それが役者である限り「真田が負けるわけがない」と思える。ところが田中と対峙した際、筆者は「この人は本気で真田を殺してしまうかもしれない」――そんな恐怖を感じたのだ。それだけに、両者の決闘を文字通り息詰まりながら観ていた。
昨年末、取材で田中にお会いした。驚くほど、柔らかい空気の持ち主だった。あの緊張感あふれる殺気は、自らの表現によって作りだしていたものだったのだ。一流のパフォーマーは、何をやっても凄い――そう思い知らされた。