農水次官の天下り先だった農林中金
前身組織、産業組合中央金庫は1923年12月の設立。危うく経営危機を迎えそうになった2023年は、創立100周年という記念すべき年だった。
1943年に農林中央金庫と名称を改め、農水次官だった荷見安(はすみやすし)氏が初代理事長に就任。以来、7代目の上野博史氏まで、理事長ポストは農水次官が就いてきた。
JRA(日本中央競馬会)理事長や旧農林漁業金融公庫総裁と並ぶ、農水省事務次官の天下り先を失うことになったのは、2008年のリーマン・ショックが原因だった。
もともと農林中金は「農林水産業の発展に寄与」(農林中金法第1条)することを目的に作られた協同組織である。その後、同庫が“巨大な投資ファンド”となった背景には、農林水産事業者への貸出しの減少がある。
「高度成長期には、企業への貸出しにシフトし、オイル・ショック時には、大量の赤字国債が発行されたことから、資産への組み入れを増やした。ところがバブル崩壊後のゼロ金利政策で、利回りを確保できず、農協(JA)や県信連などの系統機関に、十分に還元できなくなった」(経済誌記者)
このままでは農林中金はやっていけなくなるのではないか。内部で「農中立ち枯れ論」も出る中で、1990年代、常務理事だった能見公一氏が、運用に重点を置く方針に大きく舵を切った。そして農林中金に適した投資スタイルを確立し、高収益を上げるようになっていったのだ。
「約6割が海外投資で、高い利回りを求めて、複雑な証券化商品にも手を出していた。そして2008年にリーマン・ブラザーズが破綻。農林中金が抱えていた、サブプライムローン債権を裏付けにしたCDO(債務担保証券)が焦げ付いた」(同前)
農林中金は2009年3月期決算で6000億円を超す赤字を計上。約2兆円もの有価証券の含み損を抱え、市場では経営破綻の危険性も囁かれた。
「100年に1度」とも言われた世界的な金融危機に際し、金融の素人である元農水次官がトップを務めていること、さらにその理事長が年間4100万円もの報酬を得ていることが明らかとなると、世間やメディアからのバッシングは日に日に高まっていった。
農林中金がその未曽有の危機対応を託したのが、河野良雄氏だった。河野氏は1972年に京大農学部を卒業後、農林中金に入庫。広報室長、総合企画部長などを経て、2007年から副理事長を務めていた。運用畑で長く活躍してきた、農林中金生え抜きの人材である。