ちなみに、吉宗も紀州藩主時代に伏見宮家から正室を迎えていますので、8代(吉宗)・9代(家重)・10代(家治)と宮家から正室を迎えたことになります。
家重の正室・増子は、産後の肥立ちが悪く、享保18年(1733)に死去(増子の産んだ子も、出生後、程なく死去)。正室が死去して後、家重に寵愛(ちょうあい)されたのが、増子のお側付(貴人の側に仕える)として京都から江戸に入っていたお幸の方でした。そして、前述のように、家治を産むのです。
10代将軍家治は祖父の名君・吉宗にかわいがられて育った
家治の生まれた頃(1737年)には、祖父の吉宗は未だ健在でした(吉宗は1751年に病没)。吉宗は初孫誕生を大いに喜び、家治(幼名は竹千代)を身近において育てます。
家治の父・家重は言語に障害があったようで、その言葉を理解できたのは、側近の大岡忠光のみだったと言われています。さらに、家重は酒色に溺れたともされます。そうした状況でしたので、吉宗は家重に将軍職を譲った後も大御所として、死ぬまで実権を握り続けたのでした。
吉宗はわが子の家重に孫(家治)の養育を任せていたら、とんでもないことになると思い、自らの手元に置いたのかもしれません。家治は幼少の頃、聡明だったようで、吉宗はそれを喜び、政治の要諦を教えたとのこと(徳川幕府が編纂(へんさん)した徳川家の歴史書『徳川実紀』)。家治も祖父の期待によく応えて、和漢の書籍を広く読み、歴代の事績をよく暗記していました。吉宗が病となった際には、湯薬を自ら勧めたという家治。吉宗が亡くなったときには、深く慟哭(どうこく)したという家治。その様子を見て、周りの者は感動したようです。吉宗と家治の関係性がよく分かる逸話です。
そんな家治が正室の倫子を迎えたのが、寛延2年(1749)のこと。倫子は同年2月5日に京都を出発。3月19日に江戸に到着。浜御殿(徳川将軍家の別邸)に入るのです。宝暦3年(1753)11月11日、縁組の披露が行われます。そしてついに、翌年(1754)12月1日、倫子は江戸城西の丸に輿入れするのです。