1ページ目から読む
3/4ページ目

家治と17歳のとき江戸城に嫁いだ倫子の夫婦仲は良かった

家治は18歳、倫子は17歳となっていました。倫子は「簾中御方(れんちゅうおんかた)」(貴人の正妻)と呼ばれることになります。倫子が初めての子を産んだのは、宝暦6年(1756)、婚礼の式から2年後のことでした。家治との間に長女の千代姫が生まれるのです。

ところが、千代姫は宝暦7年(1757)に亡くなってしまいます。その3年後、家治が将軍職を継承。正室の倫子も江戸城本丸に移ることになります。翌年(1761年)、倫子は次女の万寿姫を出産(しかし、姫も12歳で夭折(ようせつ))。このようなことから、家治と倫子の夫婦仲は良かったと推測されています。

「正室を皇室または公卿から迎えるのが将軍家のならわしで、愛情の有無なぞとんとおかまいなしの政略結婚だったから、徳川歴代の夫人たちが不幸な生涯をおくりがちだったのもむしろあたりまえである。ところが、倫子のばあいだけは別で、家治との仲も睦まじく、やがて生れた姫を夫婦してめでいつくしむさまが、そこらのマイ・ホームの仕合せを絵にかいたようなぐあいだったのは、たしかに一つの異例と言ってよい」(江上照彦『悪名の論理 田沼意次の生涯』中公新書、1969年)との見解もあるほどです。

ADVERTISEMENT

乳母の松島は家治に側室を持たせ、後継者誕生を狙った

しかし、将軍・家治の周囲の人々の悩みとしては、男子がなかなか生まれなかったことでしょう。が、家治は側室をすぐに持とうとはしませんでした。家治の次代・家斉(11代将軍)などは、側室が40人余りいたといいますから、それと比べても、家治の「真面目」さがうかがえます。家治に男子が誕生しないことを危惧したのが、家治の乳母だった松島でした。

松島は老中・田沼意次と相談し、家治に側室を持つことを提案したとされます。すると家治は、意次にも側室を持つことを持ちかけるのでした。「お前(意次)が側室を持つのならば、自分(家治)も持とう」と言ったのです。そのような経緯があり、家治は側室を置くことになります。それが、お知保の方です。