その結果、周囲が娘に小学校受験をさせることを知らされず、準備が遅れて自分の娘だけ公立小学校に進学させるはめになった。
きっとそれが悔しかったんだよね。だから私を立派に育ててママ友たちを見返したかったんだよね――琴音は母が虐待を繰り返した持論を当時の自分に問いかけるようにして語った。
虐待は「母なりの愛情表現」
当時の琴音は「自分が悪い」と思い込んでいた。やりたい習い事はすべてやらせてくれたり、お弁当には琴音の好きな食べ物をいっぱい詰め込んでくれたりしたからなのか、虐待を母なりの愛情表現として受け止めていた。
虐待は止んだが、母なりの庇護意識からなのか、その後もママ友たちへの復讐心を元にした過剰なまでの教育は続いた。娘が立派に育っている。なら、もっとキツい指導を与えよう。おかげでリストカットしたり、不登校にもなったけど、そんなのよくあることだし、家庭教師をつけてテストだけ受ければ問題なし。私の教育方針は間違ってないはずだ。
事実、再び登校し始めた中学時代の琴音の成績は常にトップクラスで、高校では生徒会長にもなった。
有名私立芸大に合格、舞台女優を目指す
琴音は琴音で悲しませまいとして必死に母の期待に応えたのである。結果として、琴音は晴れて、母も自分も望んだ有名私立芸大に合格する。
振り返れば、琴音がゆくゆくは舞台女優を目指すと決めたのは、中2の夏のことだ。演劇好きの母の誘いで帝国劇場でミュージカル鑑賞をしたことで、見事にハマったのである。
高校生になると、自ら行動を起こして小劇団で汗を流すようにもなった。
「憧れていた女優は?」と聞くと、母の毒親ぶりを語るときとは違い、「余貴美子。そんなに綺麗じゃないのに舞台や映画に引っ張りだこだったから、私にもできると思って」と、琴音は夢に向かって邁進していた当時の自分を重ねて、このときだけは声を弾ませた。
「一緒に死んでくれないか」
母に劇的な変化が生じたのは、大学進学から2年、琴音20歳のときである。