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“湘南ブランド”が浸透した藤沢市にあって、“高齢化”に悩む横須賀市にないもの

首都圏「衛星都市」の“格差”

2024/02/06
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 日本で「衛星都市」という概念が広まったのは戦後から高度経済成長期である。大都市圏に人口が集まる中、人々は大都市郊外に居を構えるようになり、新たな街が形成されてきた。こうした動きを支えたのが、地方出身の、おもに農業を営む家庭で育った次男、三男あるいは長女、次女たちだ。長男は農家を継いだが、そのほかの子供たちは大都市圏に移動し、故郷には戻らず、結婚し家庭を築いたため、日々の生活を送るための家を買い求めたのだ。

 彼らは自分たちの本拠、家を所有することに対する関心が高く、地価の高い都心部を避け、郊外ニュータウンでのマイホーム取得を夢見た。また産業の中心が第三次産業化するにしたがって、大都市中心部にある会社へ従業員が通勤するスタイルが一般化したために、都市中心部につながる鉄道沿線を中心に形作られてきたのが日本における衛星都市の歴史である。

三浦半島へ向かう京浜急行 ©AFLO

「寝に帰る」だけの街に

 本来、衛星都市の役割は中心となる大都市に関係をもちつつ、そのうちの一部の機能、役割を果たしていく存在の街をいう。ところが、日本では多くの衛星都市が、住民が毎朝毎夕、大都市に通勤するためだけの街、裏返せば「寝に帰る」だけの街=ベッドタウンの役割しか果たせずにきた。

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 わずかに鉄道のターミナル駅などの中で、駅周辺に百貨店やホテル、近隣企業が集まるオフィスなどを構えたところもあったが、平日の昼間人口は少なく、週末に家族サービスと称された、親子連れが買い物をして、ファミリーレストランなどで食事するのがせいぜいだった。街独自の産業は少なく、住民票があるだけで、地元住民との関係性が薄く、市長、市議会議員が誰であるかさえ思い出せない住民が大半を占める、というのが典型的な衛星都市の姿だ。