メチャメチャ強い体育の先生には子供じゃ勝てなかった
――学ランの入手は、どうやって。
中野 方南町にマルカツって店があって、そこでボンタンや長ランを作ってくれてたんですよ。阿佐ヶ谷の中学生たちはそこへ行っていて、僕らの間では中ランが流行ってました。長ランにするとどおくまんの『嗚呼!!花の応援団』になっちゃうし、『花の応援団』にするなら大学生になんないと、ってのもあったし。
カラーの高さも「中ランだったら、4.5センチが一番ピタッとくるな」とかね。で、頭はパンチパーマで、靴は革靴。そんな中学生でした。
――中学校は、校内暴力などで荒れていましたか。
中野 校内暴力で世間が悩んでいる頃だったんでね。だから「俺たちも校内暴力しなきゃ。やんないと世間についていけない」「俺たちの学校も、こんなに暴れてドロドロなんだぜ」みたいなね。ただ、僕の中学にはメチャメチャ強い体育の先生がいて、その先生にみんながシメられている状態で。そんなことできやしませんでしたよ。やっぱり、子供じゃ勝てない。
だけど、その先生はなぜか不良の格好をすることは許してくれて。しかも「アイパーをかけるなら、もうちょっとこうしないと」「不良のスタイルっていうのはなぁ……」とか、アドバイスまでしてくれましたね。
僕らの世代もマッドスペシャルをやらなきゃ
――マッドスペシャルに入った経緯というのは。
中野 さっき話したI君のお兄さんが、マッドスペシャルの5代目ぐらいの総長だったんですよ。3代、4代、5代って順繰りに回ってくるものだから、おのずと僕らの世代もマッドスペシャルをやらなきゃいけないっていう。中学卒業と同時にバイクの免許を取ってそっちに行かなきゃ、みたいな。
――高校で部活などはやっていたんですか。
中野 中学で柔道をやっていたので、それで高校も入ったんですけど、すぐに怪我してダメになっちゃって。で、都立に移って。でもその後ちょっといろいろあって中退しちゃうんですよ。
――マッドスペシャルでは、主にどういった活動を。
中野 金曜の夜か土曜の夜、もしくは連チャンで走るのが主な活動で。阿佐ヶ谷のシャドーって喫茶店で、そのコースを決めるミーティングを開いてました。
――やはり、ほかの暴走族と揉めたり?
中野 スペクター、鏖(みなごろし)、極悪とはケンカしましたね。特に極悪とやることが多かったかな。出会ったら、その場でケンカになっちゃうんです。
哀川翔が落合に住んでたんですよ。16歳のときに知り合うんですけど、その後に仲良くなって、翔さんのとこへ単車で行くじゃないですか。スペクターって拠点が中井なんですよ。新宿スペクターとかもあったんですけど。